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 数日後には、モスクワ蜂起鎮圧の功績をたたえる侯爵主催の祝賀慰労会が控えていた。

 

 からっきし侯爵家に寄りつかなくなっていた侯爵夫人の代わりに、カティアがパーティーの準備に忙しそうに立ち回っていた。カティアは、パリで素晴らしいパーティーを開催することで評判の屋敷にいたことがある。そこで、侯爵から直々に準備を依頼されたのだった。

 

 ユリウスは、目が回るほど忙しい彼女の手伝いを申し出た。

 

 カティアによれば、大切なのは、出席者たちの気持ちを考えながら準備することなのだそうだ。彼らはどんな思いで戦地に赴き戦ったのだろうか。家族はどんな気持ちで彼らを見送り、出迎えたのだろうか、無事に帰ることのできなかった兵士もいるはずだ。彼らのことを想像すると、引き出物の準備や、会場の飾り付けにも、熱がこもってくる。そんな作業をしていると、ユリウスの頭に侯爵のことが浮かんでくるのだった。

 

 そんななかでユリウスは、侯爵に呼び出された。数段と魅力を増した侯爵を前にして落ち着かないユリウスに対し、侯爵は悔しいほど冷静さを保っていた。

 

「反乱軍に加わっていたアレクセイ・ミハイロフが捕まった。終身シベリア流刑になるだろう」

 

 ユリウスはとんでもなく驚いた顔をしていたのだろう。珍しく侯爵が満足げな表情を浮かべた。

 

「ついては、約束してあったアレクセイ・ミハイロフとの対面をさせてやろう」

 

 ――約束? 何のこと?

 

 ややあってユリウスは心のなかで、あっと叫んだ。反逆者アレクセイ・ミハイロフを探しているユリウスに、この屋敷にいれば再会できるだろう、と侯爵が言ったのを思い出したのだ。

 

 ――わたしのせい?

 

 ユリウスは心のなかでつぶやいた。もしユリウスがクラウスを追ってロシアに来なければ、アレクセイ・ミハイロフの帰国が侯爵に知られることもなく、捕まることもなかっただろう。ユリウスは、そう思うと心が傷み、涙ぐんでしまった。一方で、別の感情がもたげてきた。

 

 ――ヴェーラを利用したエフレムの仲間。そしてあんな形で、わたしを置き去りにした。でも、それは過去のこと

 

 罪悪感と非情な反逆者をとがめる思いとで、ユリウスの頭のなかがかき乱される。ユリウスは、揺れ動く考えを落ち着かせようとした。

 

 紫煙をくゆらせながらユリウスの反応を見ていた侯爵に、ユリウスはすうっと軽く息を吸って姿勢を正してから言った。

 

「せっかくですが、もういいのです。過去は忘れることにしたんです。彼のことも思い出さないようにしているのです。それに、彼が捕まったのは、わたしにも責任があると思っています。ですが、わたしには彼を助けることはできませんし、彼にあわせる顔もないのですから」

 

「ほう? アレクセイ・ミハイロフに会うために、リスクを承知でこの国まで来たのではなかったのか。それとも、奴か、奴の仲間とすでに会っているのか」

 

 後半の侯爵の言葉にユリウスは動揺した。侯爵の目が鋭くなった。クラウスと会ったことが知られれば、話が複雑になるだけだ。言葉を慎重に選ばなければ、と思ったユリウスは再び息を吸った。

 

「冬になってからいろいろな出来事があって、それで考えたんです。彼はエフレムの仲間なんでしょう?」

 

 侯爵の目が、続けろと言っていた。

 

「あなたは、『革命の闘士に恋など何の価値があるものか』といつかおっしゃいましたが、エフレムの行動が、あなたが正しいと証明しました。おっしゃるとおり、彼らが恋に報いてくれることはないでしょうから、会っても、つらいだけだと思うようになったのです」

 

 納得しかねる侯爵を前に、大丈夫、嘘は言っていない、とユリウスは自分に言い聞かせた。

 

「それで、過去を忘れて、おまえは今後どうするつもりだ。ロシアに来た目的がなくなったことになるが、ドイツに帰りたいか」

 

 ドイツに帰るという言葉に、ユリウスの背筋が凍りついた。それは、身の破滅を意味するからだ。

「いいえ! ドイツには帰りたくありません。ドイツに、わたしが帰るところはありませんから」

 

 ユリウスは顔色を変えて叫ぶように言った。

 

 たとえどんな結果になろうとも、この白い大地の国で朽ち果てることを覚悟して、故郷を後にしたのだ。

 

 少しの間ユリウスの様子を観察した侯爵は、書斎机から何かを取り出して、ユリウスの前の机の上に置いた。

 

「これは?」

 

「おまえの身分証だ。外出するときは身分証を携行する必要がある。当分外出することはないが、持っていなさい」

 

 ユリウスは、そこに記載されている名を読みあげた。

 

「ユリア・スミルノワ」

 

 ユリア・スミルノワは、貿易業を営む実業家の娘で、十五歳までドイツのフランクフルトで過ごした。両親の死後、理由があって侯爵家で保護しているという筋書きだった。

 

「どうして、身分証を?」

 

「一つは、憲兵隊に連行されたときのような、不測の事態が起きないとも限らないからだ。二つめは、別の人間になってもらうためだ。ユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤと名乗る少年を、『記憶喪失の少女』と説明して、おまえの自白を無効にしたのだからな。望みどおり過去は忘れてもらおう」

 

 ドイツに強制的に送還されることはなさそうだと分かって、ユリウスは胸をなでおろした。

「確かに、私は女性なので、そのような名前は知らない、と答えた覚えがあります」

 

 侯爵の表情が再び険しくなった。

 

「ほう、思い出したのか。では、あの男に何を聞かれたのだ?」

 

 ――あの男?

 

 ユリウスの顔が再び青ざめていった。声が出ないユリウスに侯爵が問い直した。

 

「僧侶に会ったはずだ」

 

 ユリウスは、クラウスのことではないと知って、ほっとしたのも、つかの間で、すぐさま別の恐怖に襲われた。僧侶には会ったが、何が起こったのか記憶がない。僧侶に対して、どうするつもりだ、と叫んだことと、そのときに感じた恐怖が思い出されるだけだ。

 

「僧侶の前に連れて行かれて、意識が遠のいていって。どこまで、どこまで、しゃべらされたの?」

 

 ユリウスから張り子の虎のような落ち着きが消え、わなわなと震えながら手を見つめた。

 

 侯爵は、そうか、と反応しただけで、次に帰途に暴徒に襲われた後のことを尋ねた。

 

「おまえを発見した憲兵は、不審な男を追っていたそうだ。その憲兵は、おまえが何かを叫びながら建物から飛びおりたと証言した。おまえは落下する前に、その男と会っているはずだ。その男について覚えているか」

 

 今度こそ、ユリウスは答えに窮(きゅう)した。残酷な形で終わった再会。心に苦味が走った。けれども、もういいのだ。実際のところ、目の前にいる人物に胸がときめくようになってからは、彼のことを思い出さなくなっていた。だが、事実を話して疑惑を持たれたくもない。

 

 ユリウスは押し黙ったままでいた。予想に反して、侯爵はそれ以上追求することもなく、書斎まで出向いたことに謝意を述べ、ユリウスを部屋に帰した。

 

「過去は忘れる、か」

 

 ユリウスが退出した後、侯爵はつぶやいた。皇帝陛下の御前では、ユリウスのことを「記憶喪失の少女」と説明した。ユリウスが過去を忘れるというのなら、それこそ都合がいい。

 

 ――忘れてしまえ。アレクセイ・ミハイロフという男のことも、過去はすべて

 

 侯爵の口から笑いがもれた。

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