top of page
Teddy Bear

​8

 ユリウスの変化に最もとまどっていたのは、侯爵の弟のリュドミールだったかもしれない。リュドミールにとって、ユリウスはかっこうの遊び相手だった。

 

 不思議な窓の話、そこで出会った男女が恋に落ち、そして悲恋に終わるという話を、うんざりするほど聞かされたが、末っ子のリュドミールにとっての楽しみは、別のところにあった。ユリウスのロシア語の間違いを正すことだ。いつもは兄や姉、教師に自分のロシア語の間違いを訂正される立場だが、外国人のユリウスに対しては自分が正す立場になれる。弟か妹ができたようで、優越感にひたれたのだ。

 

 もっとも、幼いリュドミールの言葉が必ずしも正しいとは限らず、加えて、いたずら心で、おかしなロシア語をユリウスに教えたりすることもあった。そんなわけで、ユリウスに間違ったロシア語を教えないように、と姉から小言をくらうこともあった。

 

 ユリウスはピアノも弾いた。目が回りそうなほどの速さでユリウスの指が動くのを、リュドミールは初めのうちこそ感心して見ていた。だが、幼いリュドミールの集中力は続かなかった。あるとき、演奏中にそっとユリウスの背後に忍び寄って、目隠しをしてみたこともある。気配がばれていていたのだろう。ユリウスは、邪魔をしないで、と平然と言いながら鍵盤の上の指をそのまま動かしていた。それ以外にも、リュドミールは、ことあるごとに、ユリウスの演奏の邪魔をしたものだ。

 

 廊下を走ったり滑ったりする競争や、チャンバラやプロレスごっこなど、ユリウスは、リュドミールとの取っ組みあいの相手もした。そんなときはユリウスは不在がちの兄の代わりだった。

 

 そういうわけで、リュドミールにとってユリウスは、年上と年下、兄と弟の両方の役目を備えた存在だった。

 

 ところが、ある日、兄の不在中に憲兵たちがやって来て、そのユリウスをどこかに連れて行ってしまった。もう会えないかと思うと、おもしろくもない不思議な窓の話や、ユリウスの弾くピアノが無性に聞きたくなったものだった。

 

 兄に頼んだら連れ戻して来てくれた。けれども、帰って来たユリウスは、ひどく痩せてしまっていた。食事もまともに取っていなかったのだろう。顔は青白く、その青い瞳からは光が消えていた。まるで魂が抜かれたようだった。ヴェーラやリュドミールが話しかけても、まったく反応がなかった。まともな状態ではないことはリュドミールにも分かった。

 

「何か大きなショックがあったのだろう」

 

と兄は言っていたが、リュドミールには意味が分からなかった。

 

「すごくすごく怖い目にあったのかもしれないわね」

 

とヴェーラは言った。

 

 使用人たちは、狂ってしまったのだと言っていた。

 

   *

 

 大雪になりそうな寒い日だった。

 

 いつの間にかユリウスが自室を抜け出して、行方不明になった。

 

 夕方に帰宅し、邸内の騒動をまだ知らなかった侯爵は、たまたま自ら馬を厩舎に連れて行った。普段は玄関で使用人に預けるのだが、大雪の前に馬たちの様子が気になったのだ。厩舎にいる馬たちは、侯爵家の所有する馬の牧場から選りすぐった馬たちだ。

 

 厩務員のオレグに馬を預け、馬たちに声をかけながら、馬たちの首筋を軽く叩いたり、なでたりした。どの馬も良好な状態であることに侯爵が満足し、オレグと簡単な言葉を交わしていると、少し離れたところから白い野良犬が二人に向かって吠えた。二、三回吠えると、くるりと向きを変えて走り始めた。しかし、人間たちが動く気配がないと分かると、また二人に向かって吠えて、そして向きを変える動作を繰り返した。

 

「まるで、来いと合図しているようだな」

 

「犬のことですんで、くだらないことだと思いますが、万一、何かあっても困りますんで、いちおう見てまいります」

 

 律儀なオレグが犬の走って行く方向に向かった。しばらくしてから、オレグの侯爵を呼ぶ声が聞こえた。侯爵がかけつけると、犬のそばに人が倒れていた。松明(たいまつ)の光に金髪が反射した。

 「ユリウスか?!」
 
 ユリウスのからだは、少し冷たくなっていたが、脈もあり息もしていた。侯爵がからだをゆすって、声をかけてみたが、反応はなかった。侯爵はユリウスの雪をはらい、自分の外套で薄着のユリウスをくるんだ。
 
 その晩、運悪く侯爵家に常駐している医者が不在だったうえに、ますます雪が激しくなったために、他から医者を呼ぶこともできなかった。
 
 侯爵は人払いをして一晩中ユリウスに付き添った。
 
 
 ユリウスが変わってしまったのは、そのあとだった。男のなりをしていたユリウスが、女の子の服を着るようになり、年配の女性といっしょにいることが多くなった。
 
 リュドミールも、ユリウスが本当は女の子だと知っていたが、男の子扱いできたからこそ、遊び仲間と認定していたのだ。ユリウスが正気に戻ったのはうれしいが、日に日に女の子らしく、しかもきれいになっていくユリウスに、リュドミールはどう対応したらいいのかわからずにいた。
 
 
  *
 
 
 ユリウスが元気になったら、今度は姉のヴェーラが部屋に閉じこもってしまった。リュドミールは寂しさが募ったあまり、ユリウスに、今度は姉の代わりを求めたのかもしれない。
 
 ユリウスとカティアが居間で縫物をしているときに、リュドミールが、トルストイの子どものための本を手に持って、読んでほしいと言ってきた。毎晩寝る前にヴェーラが少しずつ読んでくれていたのだという。
 
 
 「ロシア語の勉強もかねて、引き受ければいいわ」
 
 カティアは簡単に言う。何事も経験しておくと必ずあとで役に立つとも付け加えた。
 
 確かに、これまでの経験、たとえばヒロインを演じたことは、役に立っている。
 
 
 リュドミールに揶揄(やゆ)されるのはごめんだ、とばかりに、ユリウスは昼間にカティアのアドバイスを受けながら、その夜に読む部分を繰り返し練習した。
 
 演劇の経験があるユリウスにとって、顔に表情をつけて、情緒豊かに読めるようになるのに時間はかからなかった。しだいに、リュドミールもユリウスの朗読に引き込まれるようになった。

​​前へ    次へ

©2019/2020 by Ogawa Saki Wix.com で作成されました。

bottom of page