ユリウスの肖像

9
ユリウスがリュドミールと過ごす時間が再び増えていった。
ユリウスがカティアと居間で縫物をしているときも、その日の日課を終えたリュドミールがやって来ては、とりとめもない話をするようになった。子どもは話を聞いてあげるのが一番、と言いながら、絶妙なタイミングで相槌(あいづち)を打つカティアにならって、ユリウスも針を動かしながら、ときには真剣に、ときには生半可に耳を傾けた。わんぱく盛りのリュドミールも寂しいのだと思うと、可愛いものだ。
そんなときは、ユリウスは幼かったころを思い出した。
狭いアパートの部屋で、母親は、針仕事をしながら、ユリウスの他愛のないおしゃべりを優しく包みこむように聞いてくれた。そこには、まぎれもなくユリウスに対する愛情が存在した。その温かいまなざしを思い出すと、ユリウスの胸がこみあげてくる。
――母さま、どうして、わたしを置いて先に逝(い)ってしまったの?
女の子でありながら男と偽っていたユリウスが、生きていくためには、母親は必要不可欠な存在だった。ところが、その母親が、ユリウスを残してピアノ教師とともに死んだのだ。
通常は自殺者の葬儀や埋葬は制限されるのだが、二人の死は事故死とされ、別々に葬式が執りおこなわれ埋葬された。しかし、町中の誰もが心中だと考えた。死んでもなお、男の手は女の腕をかたくつかんだままだったからだ。
心中した二人は伝説の窓で出会った恋人同士だった、という噂が流れた。けれども、かけがえのない親を亡くした悲しみと喪失感、今後の心配と不安の渦中(かちゅう)にあったユリウスには、そんな噂は耳を素どおりしていくだけだった。だが、記憶のどこかに残っていたのだろう。二人が伝説の窓で出会った仲であることを思い出したときに、ユリウスの理性が働き出した。
アーレンスマイヤ家の当主アルフレートの愛人だった母親のレナーテは、ユリウスを身ごもったまま彼に捨てられた、とユリウスは聞かされていた。レナーテが途方にくれたすえに頼ったのは、アーレンスマイヤ家の財産と、美しい彼女の両方を手に入れようとしていたニセ医者のヤーンだった。ほかに頼るあてもないうえに、アルフレートに対する復讐心が芽ばえていたレナーテは、簡単にヤーンにそそのかされた。アーレンスマイヤ家に男子がいないことを利用して、生まれた女の子を男の子に仕立て、財産を相続させようと目論(もくろ)んだのだった。
男の子として育てられたユリウスは、本当の自分が否定され必要とされない悲しみと、子どもを利用する母親の身勝手さに苦しんだ。一方で、自分に向けられる母親の優しさや、心からの愛情も十分に感じ取っていた。
そんな相反する感情が交錯するなかで、持っていき場のない複雑な気持ちは、父親を憎むことに向けられた。母親は犠牲者であり、悪いのは父親だ。父親さえいなければ、母親が苦労することもなく、ユリウスが男にされることもなかったのだから。ユリウスは、父親のことを誰よりも死をもって罪をあがなうべき存在だと思っていた。
しかし、その父親の亡骸(なきがら)を前にしたときには、唯一父親と呼べる男が他界したことに惜別(せきべつ)の涙が流れた。とはいえ、十年以上もの間、憎しみや怨恨(えんこん)を抱き続けたのだから、心の奥底にこびりついたそれらの感情を、すべて洗い流すほどではなかった。相変わらず父親の気持ちを理解しようとはしなかったし、そんな心の余裕もなかった。
けれども、カティアとの会話を通じて、ユリウスは、様々な人生があることを知り、これまでと違った見方ができるようになっていた。視点を変えると別のものが見えてくる。
――わたしは今まで思い違いをしていたのでは?
異母姉からは、前妻の不貞に気づいた父親が、妻に裏切られた苦しみと寂しさから、レナーテを愛人にしたのだろうと聞いた。その父親の立場に立てば、その若い愛人に別の男ができたときに、父親は彼女からも裏切られたことになったのだ。
愛人に男ができたことを知った父親が憤慨(ふんがい)したのは想像できる。深く傷つきもしただろう。だから、母親を放逐(ほうちく)したのだと思う。ひょっとしたら、愛する女性を解放したのかもしれない。いずれにしても、今となっては母親を追い出した本当の理由は分からない。
ユリウスは涙ぐみそうになった。
――かわいそうな父さま……!
ユリウスは父親のことを、年の離れた若い女性を、権力ずくで愛人にした汚らわしい男、母親と自分を捨てた無慈悲な男だと見なして、嫌悪(けんお)してきた。そんな男の血を引いていることが、さらにユリウスを苦しめた。だが、その男もまた愛に傷つき苦しんでいたのだ。そんな父親を、かわいそうだと思った瞬間に、もう憎めなくなっていた。
――すべては、先生と母さまが「オルフェウスの窓」で出会ったせいなの?
「オルフェウスの窓」の悲恋は、当事者二人だけでなく、ユリウスや父親をも苦しみに巻き込んだのだ。
――窓の伝説から自由にならなければ
もし、大切な人たちができたときに、彼らを不幸にしないためにも。
*
「兄さまが、またお手柄だったんだって」
就寝前の読み聞かせもそっちのけで、リュドミールが誇らしげに言った。リュドミールにとって兄は英雄だ。モスクワの反乱は、レオニード・ユスーポフ侯爵の率いるセミヨノフスキー連隊によって鎮圧された。侯爵の作戦が困難な戦局を打開し勝利に導いたことは、二日前の夕方にすでに屋敷中に伝わっていた。
リュドミールは、翌日にはその英雄に会えるという喜びを抑えきれないようだ。読み聞かせをさえぎって、何度も「兄さまが」と繰り返すのだった。そのたびに、ユリウスの頭に、出征を見送ったときの侯爵の勇姿がちらつき、心臓がどきどきするのだった。
「さあ、もう寝る時間だよ」
だが、ベッドのなかのリュドミールは目を輝かせたままだ。
そのとき、部屋をノックする音が聞こえた。
「リュドミール、寝ているか」
その声に、リュドミールの瞳がますます輝いた。
ドアが開き、軍服を着用したままの侯爵が現れた。侯爵はさらに威厳が増したようだった。部屋中が侯爵の存在感で満ちると、ユリウスの胸もいっぱいになり、頬が熱くなった。
「兄さま、明日帰って来るはずじゃなかったの?」
リュドミールは、ベッドの上で飛び跳ねんばかりだ。そんな様子を見ながら、ユリウスは小声で挨拶をして退出しようとしたが、リュドミールに引きとめられた。
「ユリウスもいっしょにいて。お話を聞こうよ」
「もう寝る時間だ。おまえが眠っている様子を見に来たのだ。その様子からすると元気にしていたようだな」
弟を見る侯爵のまなざしは穏やかだった。そしてユリウスの手元を一瞥(いちべつ)した。
「ユリウスに本を読んでもらっていたのか」
「今日のリュドミールは、あなたのことで頭がいっぱいで、読むどころではなかったんですよ」
ほてった頬を隠すように、ユリウスはうつむきかげんに言った。侯爵の視線を感じて、声も小さくなる。
そんな二人の様子におかまいなしのリュドミールは、なおも戦闘の話をせがんだ。だが、ついには威厳たっぷりの兄の声に逆らえないことを悟ったようだ。おとなしく兄の就寝の挨拶とキスを受け入れた。
子ども部屋を出た侯爵は、ユリウスに弟の世話をしてくれたことに感謝の意を表した。そして、お互いに短い挨拶を交わした後、それぞれの部屋に向かった。
そのときの侯爵の低い静かな声が、ユリウスの耳に繰り返し響くのだった。
「おやすみ、ユリウス」