ユリウスの肖像

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ヴェーラは、ユリウスと同世代にしては落ち着いた女性で、それまでに出会ったことのある上流階級の女性とは違う、知性と度胸と責任感を備えていた。
大貴族のご令嬢が、自分と同じ階級かどうかも定かでない、本名も知らないユリウスに対して、適度な距離を取りながら気持ちよく接してくれたことは、驚くべきことだった。
かつて、ユリウスは、この屋敷から逃亡を試みたことがある。ヴェーラの友人のアナスタシアにナイフを突きつけて、人質にしたのだ。そのとき、ヴェーラがアナスタシアの代わりに人質になると申し出た。結局、ユリウスはこの申し出を無視したが、逃亡が失敗した後に、人質の身代わりの申し出ができる女性がどのくらいいるだろうか、と感心したものだ。
そんなヴェーラが庭師のエフレムと密かに会っていたことは、ユリウスは知っていた。
ユリウスがこの屋敷に来て間もないころ、夜にヴェーラが人目をはばかるようにして庭を歩いていたのを見たことがある。そのときは、不審に思ったものの、侯爵家の令嬢の秘密は詮索(せんさく)すべきではないと考えたし、興味もなかった。
ヴェーラの秘密が分かったのは、最近のことだった。ブランシュと遊んだ帰りに、ヴェーラが庭小屋へ向かうのが見えた。そのときのヴェーラは、人目を気にしていないようだったので、ユリウスは、気軽な気持ちで声をかけようとした。けれども、庭小屋の近くまで来たときに、中から聞こえた会話に、ユリウスはとまどった。
「愛しいエフレム、毎日この屋敷で顔をあわせているのに、こんな所でしか言葉を交わすことができないなんて、つらくって狂ってしまいそうだわ」
「ぼくも同じです。愛しています、ヴェーラ」
ユリウスは、足音に注意しながらすぐに庭小屋から離れた。
*
「名家の後継やご令嬢の立場というのは、つらいものですね」
カティアが飲んでいたティーカップを置いて言った。
「自分の人柄ではなくて、家柄、地位、財産、ときには家族の影響力によって、自分の価値が決められるんですから。女性のばあいは、特に持参金がものをいいますし」
カティアによると、侯爵も結婚する前は最高の結婚相手として見なされていたという。侯爵は、国内でも指折りの名家に生まれ、莫大な財産を相続したことだけでも、結婚相手として申し分ないのだ。加えて、侯爵自身も若く、切れ者で、皇帝陛下の信頼も厚く、容姿もいいほうだから、当然のことかもしれないという。
世間には、様々な理由や事情があって、相手を罠にはめてでも、有力者に娘を差し出そうと策をめぐらす親さえいる。結婚はできないとしても、愛人にでもなれば、親もまた贅沢ができるだろうし、借金があればその返済もできるのだ。
さらに、男性としての魅力あふれる侯爵との関係を楽しみたがっている女性も多いらしい。何かのおりに屋敷に足を踏み入れた女性が、大胆にも侯爵の寝室にまで入り込んだことも、一度ならずあったそうだ。もっとも侯爵のほうは、自らの義務に没頭していたため、群がってくる女性やその両親に対しては失礼なほど相手にすることもなく、寝室への侵入者がいたときに限って、屋敷を留守にしたり、書斎で朝を迎えていたりしたということだ。
女性にも同じことがいえた。皇帝の姪のアデールもまた、侯爵と同様の状況にあった。姪が多くの下心ある求婚者に囲まれていることを懸念した皇帝が、二人に結婚を勧めたのだそうだ。財産も地位もある者同士であれば、一方的に利用されることはないからだ。
ヴェーラもまた、持参金や侯爵の持つ権力目当てに、求婚されたり、罠にはめられたりするということだ。ヴェーラのことを、宮殿のようなお屋敷で育った心優しいお嬢様だと単純に認識していたユリウスには、彼女の置かれた状況や孤独さなどには思い至らなかった。
カティアはジャムをなめて一口お茶を飲んでから言った。
「自分が真剣に愛しているのに、相手がこたえてくれないと、自分の存在すべてが否定されているようで、本当に悲しくて苦しいと思います」
ユリウスは自分の状況を言い当てられたと思った。クラウスが自分の愛にこたえてくれると思い込んでいたのだ。だが、彼はその愛にこたえてはくれなかった。ユリウスは、思ったことを口に出してみた。
「ヴェーラは、自分自身を責めているようにも思えます。相手も自分を愛していると思い込んで、相手の意図を見抜けなかったことが腹立たしいのではないでしょうか」
カティアはうなずいた。
「そのとおりだと思います。でも、お気持ちを切り替えて、早く笑顔を見せて欲しいものです。時が癒(いや)すともいいますが、悠長(ゆうちょう)にかまえてはいられません。結婚適齢期は待っていてくれませんもの」
女性の結婚適齢期は短い。二十歳を過ぎた女性は焦り出し、二十歳代半ばを過ぎたら、年齢の離れた男性か、子連れの男性と結婚するしかなくなることは、ユリウスも見聞きしてきた。
「でも、気持ちは、そんな簡単に切り替えられるものでしょうか。心の傷は癒(い)えるものなのでしょうか」
ユリウスはヴェーラの苦しみと自分を重ねあわせていた。
「確かに、何かのきっかけがあるか、よほど強い意思を持っていなければ、難しいですね」
カティアは、そう言うと、ユリウスの顔を正面に見すえた。
「でも、いったい世の中に、失恋の経験がないという人が、どのくらいいるというのでしょうか」
カティアの言うことには一理ある。多くの女性や男性が、様々な経験をしている。彼らも、恋をして、破れて、傷ついて、そして、また新しい出会いをする。
――つらいのは自分ひとりじゃない
カティアの考えでは、不幸にひたったままでいたら、つかめる幸せもつかめない。ここぞというときに、悲愴(ひそう)な顔をしているか、笑顔を見せるかで、運命が変わるのだという。
ユリウスは、カティアがやっていたように、いちごのジャムを口に含んで、紅茶で流し込んだ。いちごの甘酸っぱさと、紅茶の苦味が口に広がった。
この後、カティアが見聞きした興味深い幸せなカップルの話を聞かせてくれた。それらの話は、ユリウスを驚かせたり、笑わせたりしてくれた。カティアの話のたねは尽きなかった。