ユリウスの肖像

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防寒対策を万全にして庭に出たユリウスは、庭の植栽(しょくさい)を通り抜け、厩舎(きゅうしゃ)に近づいた。すると、白い仔犬がユリウスに勢いよく飛びついて来たため、ユリウスは押し倒されてしまった。仔犬といっても、大型犬の仔犬なので、小さくはない。その様子を見た厩務員が笑っている。仔犬は少し申し訳なさそうな顔をして、ユリウスの顔をぺろぺろとなめたが、すぐにユリウスが持っている紙包みの匂いをかぎ始めた。
「ブランシュ、おいで」
ユリウスは立ち上がって、走り出した。続いて仔犬も軽快に走り出した。
ペテルスブルクの冬の日は短い。貴重な日中に、外に出て、冷たくても新鮮な空気に触れるのを、ユリウスは楽しんだ。
仔犬は途中で長い木の枝を見つけ、嬉しそうに口にくわえて持って来た。今日はこの枝で遊びたいらしい。ユリウスの後を追って木々の間を仔犬が通ろうとすると、枝が木の幹に引っかかって通れない。何度引っかかっても、仔犬は枝を離そうとしない。その様子がおかしくてユリウスは笑い出した。
「枝を離さないと通れないよ」
仔犬が通れるように、ユリウスが枝を取りあげようとすると、仔犬と引っ張りあいになった。仔犬とはいえ、あごの力は強いようだ。とうとうユリウスが枝を離した。その反動で、ユリウスは再び転んで雪まみれになってしまった。ユリウスは小さな悲鳴をあげて再び笑い出した。
犬とじゃれあっていると、子どものときのように笑うことができる。こんなふうに笑ったのは、ずいぶん久しぶりだ。ブランシュの仔犬特有のころころと跳ね回る躍動感と生命力、そして抱き上げたときの温かさが、ユリウスに力を与えていた。ユリウスに生きるエネルギーを吹き込むために、あたかもブランシュがつかわされたかのようだった。
*
それまで外出どころか、庭に出ることも許されなかったユリウスだったが、たとえ厳しい冬でも、自然の光を浴び、新鮮な空気に触れることが若い体には必要だ、と侯爵を説得したのはカティアだった。とはいえ、行動できる範囲は限られ、しかも原則監視付きという条件だった。
最初はカティアといっしょだった。
サイズ直しをしたばかりのドレスの上に、防寒着を着込んだユリウスは、初めてユスーポフ侯爵家の庭に出て、冬の樹木や雪と土の匂いを感じた。雪が弱々しい太陽の光に反射して美しい。カティアに樹木の名前などを教えてもらいながら、景色を楽しんだ。
しばらく歩いたら、カティアが、疲れたからと言って、後で裏口で会うことをユリウスと約束して別れた。こうして初日に監視は建前(たてまえ)だけになった。
一人になったユリウスが歩いていると、後ろから軽快な足音がした。振り向いてみても、何も見えなかった。それでも何かの気配がするので、目をこらして見てみたら、四つ足の白い動物がいた。白い雪の上にいたので、分かりにくかったのだ。犬だった。スピッツ系の犬で、まだ耳は少し垂れているが、成犬になれば、とがった耳がピンと立つだろう。
ユリウスは仔犬にかまわず再び歩き出した。すると、仔犬はユリウスの後を追って歩き出した。ユリウスが足を止めると、仔犬も止まり、首をかしげてユリウスをじっと見つめた。再びユリウスが歩き出すと、仔犬も歩き出し、ユリウスの後について来る。ユリウスが止まると、仔犬も止まり、また首をかしげてユリウスを見つめる。
「おいで、おまえもひとりなのかい」
と聞いても、仔犬はユリウスとの距離は保ったままで、首をかしげたまま、じっとユリウスを見つめるのだった。ユリウスは、この一途な瞳に負けた。白っぽい毛はボサボサでやや薄汚れていたので、野良犬に違いなかった。
その日から、ユリウスは、仔犬のために、食事を残して紙に包んで持って行くようになった。仔犬は、初めのうちは警戒していたのか、食べ物を遠巻きにじっと見ていただけだったが、翌日には、食べ物はなくなっていた。二、三日すると、犬はユリウスに慣れたのか、ユリウスの目の前でガツガツと食べるようになった。
ユリウスはその仔犬をブランシュと呼ぶようになった。
やがてブランシュが厩舎がお気に入りなのが分かった。藁(わら)に背中をこすりあわせるのが気持ちいいらしい。厩舎のすみの藁のなかで、厩務員にも気づかれないように、ひっそりと生きてきたようだった。 厩務員のオレグは、完璧に厩舎を管理していると思っていただけに、犬が入りこんでいたことに驚いていた。
オレグによると、サモエドという犬種らしい。ユリウスが厩舎から追い出さないでとお願いしたら、あっさりと了承してくれた。馬たちが興奮することもなかったし、なかには気難しい馬もいるらしかったが、ブランシュは、その馬とうまくやっているようだった。
「その犬がお嬢さんを助けたんですよ」