ユリウスの肖像

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翌日の午後、ロドニナはユリウスを鏡の前に立たせて、持って来た白いドレスをあてた。上質な生地の古着で、ユリウス好みのレースがあしらわれていた。新しいドレスを仕立てるまで、間にあわせにサイズ直しをするのだそうだ。
前日と同じサイズのあわないドレスを着たユリウスは、小物や下着類を縫うことになった。
ユリウスは縫物が上手だ。
子どものころ、フランクフルトの下町で母親と二人きりで暮らしていた。未婚の母とその子に対する世間の風あたりは厳しかった。ユリウス親子は、母親の縫物の仕事でわずかな収入を得て暮らしていたが、ユリウスにピアノを習わせるために、母親は縫物の仕事を増やした。母親の仕事が手いっぱいになれば、ユリウスが自分たちの簡単な縫物や料理をするのは、ごくあたりまえのことだった。
だから、簡単な下着類はちくちくと縫い進めていく。ものづくりは楽しいし、できあがったものが目に見えるので、やりがいもある。
「女の子はドレスが好きなものだけれども、わたしも、幼いころからドレスや装飾品が大好きだったのよ」
ロドニナは、ドレスの縫い目をほどいては縫い直しをしながら、身の上話をしてくれた。さる貴族の使用人の家族のもとに生まれ、子どものころから奥方やご令嬢たちの着る美しいドレスに憧れていたこと、ご令嬢が特別な日に着るドレスを縫って好評だったことなどだ。主家の計らいで女学校に通い、教師になる道もひらけたが、ドレスや装飾品が好きでたまらなかった彼女は、卒業後も両親とともに主家で働くことを選んだという。
「だって、教師には手の届かないような高価な生地を使って、すばらしいドレスを仕立てられるのよ?」
と楽しげに言った。
そのうち、生地やパターンの研究や、髪飾り、ジュエリー、帽子、手袋などの全体のバランスを考えることに夢中になり、パリのお屋敷での仕事の話がきたときには、二つ返事で引き受けたのだそうだ。
そんな話を聞きながら、ユリウスは子どものころ、普通の女の子のようなドレスを着たくて仕方がなかったことを思い出していた。母親に無理を言って、マインツのカーニバルで白いドレスを着せてもらったのだ。
自分の意思に反してドレスを着たときもあった。
男と偽って男子校に通っていたユリウスが、不本意ながら演劇のヒロイン役に選ばれたのだ。そのときは、女役を演じることで、女だと見抜かれるのが何よりも怖かった。男子学生が女役を演じることは女装をすることを意味するが、女が女装をしても「女装」にならないからだ。
そんなわけで嫌々ながら女役に取り組んだユリウスだったが、舞台衣装を初めて手に取ったときには、思わずため息をもらした。衣装係が、史上最高といわれるヒロイン役のために製作した衣装は、すばらしい出来ばえだった。すでに美しい装飾が施されていたが、さらに真珠などをそでに縫いつけたらきれいだろうな、と思ったものだ。
自分も人なみに女の子だったんだ、と当時の気持ちを振り返って思う。
ロドニナの話を聞きながら、そんなことを思い出している間に、ドレスの補正が終わり、ユリウスは促されるままに袖を通してみた。
鏡に映った自分の姿を見たユリウスの口元がゆるんだ。
「お嬢様の笑顔は、とてもすてきですね。まわりが明るくなりますわ。もっと笑って過ごしませんか」
また、ロドニナは、ユリウスの歩き方、座り方などの動作がたいへん優雅だとほめた。名家のご令嬢にもひけをとらない、とのことだった。
鬼委員長のおかげだな、とユリウスは思った。鬼委員長とは、ユリウスがヒロイン役を演じた演劇の実行委員長のことだ。彼は、伝統ある学校のイベントに誇りを持ち、それゆえ指導にも過剰なほどの熱が入ったため、鬼委員長といわれていた。
ヒロイン役に選ばれるのは、華奢(きゃしゃ)な体格の下級生だったとはいえ、成長期の男子が演じるのだ。当然ながら、女らしく見せるための技術と努力が求められた。そのため、実行委員長は、細部にも目を光らせ、がみがみとヒロイン役をしごいたものだ。その気迫に満ちた指導のかいあってか、ヒロイン役の男子学生は、そこいらのご令嬢たちよりも、優雅で優美に見えるように「女装」するすべを身に付けたのだった。
ユリウスもまた、鬼委員長に厳しくしごかれた結果、美しい立ち振る舞いができるようになったのだ。


「今まで男のふりをしていたんですって? 侯爵様はご存じだったようですけれども、奥様や使用人たちから、あなたのことを少年だと思っていた、と聞きましたよ。きっと事情があったのでしょうから、話したくなければ、話さなくてもいいのですよ。でも、過去のことは過去のこと。重要なのは、これからのことですわ。お嬢様には、女性らしい雰囲気がありますし、体格やお顔つきから、男装しても、すぐに女性だと分かってしまうと思います」
男でいることが年齢的に限界なのは、ユリウスも分かっていた。だから、故郷にいられなくなったのだ。
しかし、侯爵やその妹のヴェーラには、ユリウスが女だということは知られている。この邸内では男装をする必要はなかったはずだ。
――なのに、なぜ、ぼくは男装をし続けたのだろう?
外国でも、少女よりも少年でいたほうが安全だろうし、いったん女の子になってしまえば、もう男にはなれない、と思ったからかもしれない。しかし、冷静に考えれば、男として生きていくのは、もう不可能だ。この侯爵家で、ドレスを着たりして、女の子であることを満喫しても悪くない。
「お嬢様は、今後は、どうなさりたいですか」
「普通に女として生きていきたいと思います。女が男装するなんて不自然ですし、世間からもよく思われませんから」
ユリウスは、ロドニナの存在に感謝した。彼女は、ユリウスが女性として知っておくべきことを、いろいろ教えてくれるだろう。母親も、女友達もいないユリウスにとって、必要な人だと認識した。
ユリウスは、自分のことを名前で呼ぶように頼んだ。話し相手という立場のロドニナに、友人でいて欲しかったのだ。
――でも、なぜ侯爵は、ぼくに話し相手を付けたのだろう?