ユリウスの肖像

5
空が鉛色だ。陰鬱(いんうつ)な空のせいで気分まで滅入(めい)ってくる。こんなときは、孤独感が増し、人のぬくもりが恋しくなって、涙が出そうになる。
「誰か、そばにいて、お願い」
ユリウスはつぶやいた。
案の定、雪が窓を打ち始めた。居間は広いのに、空気がどんよりして息苦しい。ユリウスは、雪が降り込むことなど、おかまいなしに急いで窓を開けると、何かどす黒いものが胸を襲い、不安感と恐怖心に支配された。
遠くに人影が見えたかと思ったら、もう次の瞬間に、その人影はユリウスのすぐそばに立っていた。
「ヤーン?! 来るな!」
ユリウスは、ぎょっとして叫んだが、声になっていなかった。その人影は、母親に乱暴しようとしたところを、ユリウスが背後からペーパーナイフで突き殺した男、ヤーンだった。
ユリウスは窓を閉めようとしたが、力が入らない。
出て行け!
せいいっぱい心のなかで叫んだが、男の影は消えない。底気味悪い目がユリウスを見ている。
そんな目で見るな、出て行け!
ユリウスは再び声にならない声をあげた。落ち着け、と自分に言い聞かせたが、まるで金縛りにあったように動けない。
――おまえを殺したぼくに一生ついて来る気なのか。これは、生きている限りつきまとう神の裁きなのか
「何をしている?! 雪が吹き込んでいるではないか、ばか者」
鋭い声が背後から飛んできた。そして力強い腕によって、ユリウスは窓辺から引き離された。窓がぴしゃりと閉められると、またたく間に亡霊は消え去り、ユリウスの頭と胸に入り込んでいたどす黒いものも、すうっと引いていった。
ユリウスは、その腕の持ち主に無意識にすがりついていた。がっしりとした包容力のある体に安心し、こわばっていたユリウスの体から力が一気に抜けていった。どういうわけか、このぬくもりを知っているような気がする。
ユリウスの呼吸が落ち着いて、自分が抱きついた相手が誰であるかが分かると、仰天し、ぱっとその人物から飛び離れた。
ユスーポフ侯!
良好な関係だとはいいがたい相手だ。
侯爵が何か説教をし始めた。
不思議なことに、つい先ほどまでの重苦しくにごった空気が、いまや澄んだ空気に変わっている。侯爵はその存在感と威圧感で常にその場を支配し、彼のいる場の空気は緊張感で引き締まる。いつもは、侯爵の前では、その威圧感に押しつぶされそうになるユリウスだったが、このときは守られているように感じられた。
亡霊さえも逃げ出したと思うと、侯爵がまるで強力な魔よけのようだ。そんな考えが頭に浮かんで、ユリウスは、思わずくすっと笑いそうになった。
ユリウスの頬が少しゆるむのに気づいた侯爵は、話すのをやめてユリウスを見つめた。ユリウスも侯爵の声が途切れたので、何かあったのかと侯爵の顔を見上げた。二人の視線がぶつかりあい、しばらくの間、二人は黙ったままお互いの瞳を見つめあった。
沈黙を破ったのは侯爵のほうだった。ユリウスにソファで休むように勧めた。
「話があったのだが、しばらくここで休んでいなさい。誰かを呼んでおく。では失礼する」
と言って、さっさと居間から退出してしまった。
*
「話というのは何でしょうか」
侯爵の書斎に来たユリウスは、軽く膝(ひざ)を曲げてお辞儀をしてみせた。先ほどは、取り乱していたので、今度は落ち着いて礼儀正しく接しようと思ったのだ。それに、せっかくドレスを着ているのだし、普通の女の子のように、高貴な身分の男性に対する礼儀を示してみようとも思ったのだ。
侯爵は書斎机から立ち上がって、ユリウスに椅子を勧めた。いつもは立たされたままだったユリウスが、椅子を勧められたのは初めてだった。ドレスを着ると扱いが違うらしい。
侯爵は、葉巻を噛(か)み切り、ゆっくりと吸い始めた。そして、先般、侯爵家の不手際により、ユリウスが憲兵に連行されたことを淡々と詫び、アーレンスマイヤ家のご子息、いや、ご令嬢にふさわしくない獄中での待遇について遺憾(いかん)の意を表明した。
――何を言っているんだろう?
ユリウスは侯爵が何の話をしているのか分からず、きょとんとしていたが、後半の部分で、あわてふためいた。
「ア、アーレンスマイヤ家って? あなたは、あなたは……」
その後が続かなかった。侯爵は憲兵とか連行とか言っているが、ユリウスには理解できなかった。
「それに、連行って、何のことですか。わたしが? いつ?」
侯爵は、表情一つ変えずに、注意深くユリウスの様子を観察していたが、すぐに結論に達したようだ。
「先週、私の不在中に憲兵に連行されたことを、覚えていないのか」
ユリウスは、どうにも分からないといった表情のままだ。
「私の不在中におまえは憲兵に屋敷から連行された。だから私が引き取りに行き、連れ帰ろうとした。その帰り道に暴動に巻き込まれて、おまえは、はぐれてしまったのだ。おまえが発見されたときは、建物から落ちた後で意識がない状態だった。頭を打ったのだろう。おそらく、そのときの衝撃で、その前後の記憶を失ったのだと思われる」
枝葉末節(しようまっせつ)を省いたごく簡潔な説明だった。頭を打ったのなら、覚えていないのは説明がつくかもしれない。だが、疑問はまだ残る。
「なぜ、わたしは憲兵に連行されたんですか」
「私の政敵がおまえを利用しようとしたのだ。尋問して、私の汚点を探し失脚させるのが目的だ」
「あなたはまだ失脚していないようですので、彼は目的を達成できなかったんですね。わたしからは何も聞き出せなかったんでしょう。あなたの汚点を知るよしもないのですから」
「確かに、私はまだ失脚していないし、するつもりもない。だが、おまえは、入国目的と、私にも聞き出せなかった本名を自白したそうだ。ユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤという少年が、反逆者を追って入国した。その少年を居住させていた私も反逆者にされるところだった」
侯爵は、ただ「反逆者」とだけ言った。名前を出せば、過去の経験から、目の前の相手が取り乱すことが予見できたからだ。だが、いまは興奮させるべきではないと判断した。侯爵は、驚いて声が出ない様子のユリウスを見ながら続けた。
「しかし、おまえは女で、男ではない。したがって、ユリウスという男性名は誤りで、入国目的も含めておまえの自白はすべて信憑性(しんぴょうせい)がなくなったということだ」
そして強い口調で付け加えた。
「おまえは危険な立場にいる。身の安全のために、アーレンスマイヤという名は忘れることだ。アーレンスマイヤ氏の役割もだ。誰かに知られたら政治的に利用されるだけだ。ここでおとなしくしていれば、安全は保障する」
ユリウスは膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「あなたは、わたしの父を知っているのですか」
「お名前は存じているが、面識はない」
自室に戻ってもユリウスは混乱していた。
自分が一時の記憶を失っているとは、つゆほども思わなかったうえに、隠していた自分のフルネームまで知られている。さらに、ユリウスの父親が皇帝の隠し財産を預かったことまで、侯爵は知っている様子だ。誰もが知っていることではないだろう。侯爵のことだ。アーレンスマイヤ家のことも調べあげているに違いない。それは、ユリウスの過去と罪を彼が知っていることを意味する。
しかし、ユリウスの過去には触れなかった。また、なぜ「安全は保障する」のかについても、ユリウスには、分からなかった。ただ、ここにいれば安全だろうとは思う。
自分の力では、どうにもできないことを考えていたら、疲れて、誰かに寄りかかりたい気持ちになった。そして、いつの間にか、侯爵の胸にいたときのぬくもりと安心感を思い出していた。