ユリウスの肖像
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北の都の初冬の太陽は弱々しく、雲の多いどんよりとした日々が続いていたが、その日は、明るい光が窓から射し込んでいた。空気は澄んでいて、カーテンのすき間から見える空は、やわらかな色合いで美しい。
眠りから覚めたユリウスは、心に羽がはえたように軽やかな気分だった。背負っていた重たいものが落ちて、長い間見ていた悪い夢から解放されたようだ。
よく覚えていないが、とても幸福な夢を見たような気がする。
視界に入る世界は美しく、部屋の古い壁や床でさえ、目に入るものすべてが、輝いているように見えた。
男と偽って生きてきたユリウスが、いつの日だったか、女の子として人生をやり直すことを、母親とともに決意したときも、皆にキスして回りたいほど、未来への期待で心がおどったものだ。だが、いまは、そのとき以上に心は晴れやかだ。
「生きていてよかった」
そんな言葉が口からついて出た。何かが変わる予感がした。
ふと部屋を見やると、見慣れない白いドレスが椅子にかけてあった。ユリウスは、小声で歓声を上げて、ベッドから飛びおりた。さっそく着てみたが、ぶかぶかだった。無理もない。しばらくの間、まともに食事をしていなかったせいで、もともと細い体が、さらに細くなっていたのだ。お腹がぺこぺこだった。
ぎいっ、と部屋のドアが開く音がした。
「お目覚めになっていたんですね」
お仕着せを着た小間使いが、ユリウスの様子を見に来た。小間使いは、まだユリウスが眠っていると思って、許可を得ないで入室したことを詫びた。そして、何か軽い食事をすぐに用意すると言って退出した。
食事を待っている間、ユリウスは、サイズがあわないドレスのすそを持ち上げ、くるっと回ってみた。鏡に映った白いドレスのすそが、花が咲いたように広がり、そしてしぼみ、また広がった。ユリウスは、まるで小さな子どもが特別な服を着たときのように、ドレスのすそがおどるのを楽しんだ。
サイズのあわないドレスを着て、はしゃいでいるときに、食事が運ばれてきた。そんな様子を見られたユリウスは、恥ずかしくなった。だが、小間使いは、何ごともなかったかのように配膳をして、ごゆっくりどうぞ、とお決まりの言葉をかけて退出したのだった。
――蕎麦粥(そばがゆ)って、こんなにおいしかった?
運ばれてきた蕎麦粥が、思わず叫んでしまうほどおいしく感じられた。一口ごとに、身体のすみずみにエネルギーが行き渡っていくようだ。思い返せば、この一、二年間、食事をしてはいたが、そのおいしさを味わってはいなかった。
お腹が満たされると、体がぽかぽかし始め、やがて眠気に襲われた。
それから二、三日の間、ユリウスは食べては眠り、食べては眠りを繰り返して過ごした。
*
「はじめまして、お嬢様」
ユリウスの部屋に、品の良い女性が笑顔で現れた。亜麻色の髪を、ロシアの女性がよくやっているように編み込んでいる。年のころは、ユリウスの母親よりも上だろう。けれども、年齢を感じさせないきれいな人だった。背筋はまっすぐ伸びてスタイルもよく、後ろ姿を見れば二十歳代に間違えられてもおかしくないほどだ。お仕着せを着ていないので、小間使いではないことは分かる。
――「お嬢様」だって? このぼくが?
ユリウスは内心くすっと笑った。
――「お嬢様」と呼ばれるのも悪くない
カティア・ロドニナと名乗るその女性は、ユリウスの話し相手をしながら、ロシア語や、状況に応じて、その他必要なことを教えるように、ユリウスが滞在している侯爵家から依頼されたそうだ。夫は法律家で、侯爵家の管財の手伝いをしているという。
ロドニナはさっそくユリウスを鏡台の前に座らせた。
食べては眠る暮らしをしたおかげで、体重は少し戻したようだが、ユリウスの体型はまだ標準以下らしい。
「お嬢様のお体は、これから大人の女性になる大切なお体です。ゆくゆくは、結婚して、子どもを産んで、幸せな家庭を築くためにも、きちんと栄養を取らなくてはね」
「大人の女性」、「結婚」、「子どもを産む」、「幸せな家庭」という、これまで無縁だった言葉に、ユリウスは、はっとした。
女の子は、十代半ばから急速に輝いていく。ユリウスの故郷の女の子たちも、出会うたびにきれいになっていった。後ほんのわずかな時間で、大人の女性の仲間入りをするのだ。すてきな男性との出会い、幸せな結婚、そして、その先に、子どもがいる幸せな家庭を夢見ている。夢と将来への期待であふれている年頃だ。
ユリウスは、そんな普通のことを、これまで夢見なかったわけではないが、自分に与えられた運命を思うとつらくなったものだ。それに、特に成長期になってからは、男の子たちとは違う身体の発達の仕方に苦しみ、男と偽るのに必死になっていた。だから、ユリウスには、そんなことを夢見る余裕などなかった。
これまで我慢し、自分を抑えつけてきたことや、何か大切なものが与えられなかったことに、胸がつまって涙が出そうになった。同時に、普通の女の子としての幸せを求めたい、という気持ちが芽ばえ始めた。
そんなことをユリウスが思っているうちに、ロドニナが、ユリウスのサイドの髪を手ぎわよく編み込んで、後ろにまとめていた。鏡に映った金髪はつややかに輝いている。こけた頬がやや強調されたが、髪型一つでぐっと女の子らしく見える。顔つきまで変わったかのようだ。
サイドの髪を引っ張ったおかげで、目が少しつり上がったが、何よりも瞳がきらきらしているのが自分でも分かった。
――これが ぼく?
ロドニナが次に取り出したのは、色とりどりの布地の見本だった。色や質感の違う布地を、鏡の中のユリウスに次から次へとあてて、好きな色や似合うと思う色を聞いていった。
「お嬢様に似合う色は、ごく淡い控えめな色ですね。特にピンクや水色、グレーやベージュがかかった色など幅広く似合いますし、ネイビーもいいですね。淡い紫陽花(あじさい)の色、それから赤みのかかったプラムの色も、お似合いですよ。生地はどっしりした重いものではなく、シフォンのような軽やかなものがいいでしょう。もっともペテルスブルクの冬は、シフォンだけでは乗り切れませんけれども」
ユリウスがこれまで着たことのないような色や、自分ひとりだったら決して選ばなかったような色が含まれていたが、それらすべてがユリウスに似合っていた。ロドニナは、まるでおとぎ話の魔法使いのようだった。
「明日は縫物をしながら、お話をしませんか」