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Wedding Bouquet

1


「ユリウス、ユリウス」

 

 懐かしい声のするほうを振り返ると、母さまが優しく微笑(ほほえ)んで手招きをしている。優しい白い手。やわらかい笑顔。

 

 ――母さま、今までどこにいたの?

 

 ユリウスは、そう言いかけたが、これは幻だと思い直した。母さまは、とうにこの世にはいないのだから。

 

 ――それとも、ぼくを迎えに来てくれたの?

 

 幻であっても、あの世からの迎えであってもいいから、優しい母親の近くで安心したかった。

 

 ――母さま、ぼくを愛して、そして抱きしめて

 

 それほどまでにユリウスは愛情に飢えていた。手招きされるほうへ向かおうとしたが、衰弱した身体は思うように動かず、その場で倒れてしまった。力を振り絞って、よろよろと立ち上がり、ふらふらした足取りで母親に近づこうとした。けれども、ユリウスが近づこうとすると、母親は遠ざかるので、二人の距離はいっこうに縮まらない。

 

 空気は肌を突き刺すように冷たかった。

 

 どれほど歩いただろうか。いつの間にか母親の姿が視界から消え、禍々(まがまが)しい気配とともに、もやもやと立ち上る白い煙のようなものに、ユリウスは取り囲まれた。あっという間に、その白い煙は濃くなり、一寸先も見えなくなった。白い煙がまるで闇のように感じられる。しかも凍え死にそうなほど寒い。指がかじかみ、身体から体温が奪い取られていく。もう限界だと思った。

 

 ――もうすぐ母さまのもとに行くんだ

 

 そんな思いが頭をよぎった。手足の感覚が失われていき、ユリウスはとうとう力が尽きて倒れた。


 そのとき、冷たい突風が吹き、闇のような白い煙が、薄気味悪くゆらゆら動きながら、何かの形をつくり始めた。そして、それは、みるみるうちにローブをかぶった人の骸骨(がいこつ)となった。骨の手には大鎌(おおがま)を持っている。

「死神!」

 

 ユリウスは叫んだ。だが、覚悟はできていた。ユリウスには、もう、あらがったり、逃げたりする力は残っていなかった。

 

 ――これですべてが終わるんだ

 

 死神が大鎌を振り上げた。

 

 ――やっと罪深い人生が終わる

 

 大鎌がユリウスに向かって振り下ろされたその瞬間に、どういうわけか死神が大鎌もろともさっと消え、また元の闇のような濃い白い煙がユリウスを取り巻いた。もうろうとしていたユリウスの意識が、さらに遠のいていく。

 

 どのくらい時間がたっただろうか、かすかに残っていた意識が、ごくわずかな温かみを遠くに感じ取った。その方向に目をやると、一条の光が射しているのが見えた。遠くに見えた細く弱々しい光が、ユリウスに近づき、次第に大きくなって、まるでスポットライトのように地面を照らした。

 

   陽気な歌と

   ビールの泡と

   笑うように……

   白いドレスはひるがえり

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 女の子の歌声が聞こえ始め、その声は少しずつ大きくなっていった。スポットライトのなかで、女の子が踊っているのが、うっすらと見えた。光がユリウスのすぐそばまで来ると、ぼやけていた女の子の姿がはっきりしてきた。その女の子は六歳ぐらいだろうか。金髪をなびかせ、白いドレスのすそをひるがえしながら、上機嫌で歌って踊っている。

 

「白いドレス」

 

 ユリウスはつぶやいた。自分の幼い時の姿に似ている、いや、あれは幼いころの自分自身だ。

 

 マインツのカーニバルで、初めてドレスを着せてもらって、嬉しくて嬉しくて仕方がないという笑顔。大はしゃぎでドレスのすそをひらひらさせて踊っている。その女の子は、それまでの悲しみや、これからの不安も、存在しないかのように、無邪気(むじゃき)にくるりと回ったり、跳ねたりして、ただその瞬間を喜び、楽しんでいる。その姿はとても愛らしかった。

 

 ――なんて可愛いんだろう

 

 死ぬと、過去を見せられると聞いたことがある。

 

 ――とうとう黄泉(よみ)の国へ来たんだ

 

 ユリウスは自分の過去を思った。

 

 その女の子は、大好きな母親のために、女の子なのに男の子と偽って一生懸命に生きてきた。その子の望みは、普通の女の子のようにドレスを着ることだった。ユリウスは、願いが叶って有頂天(うちょうてん)になっている幼い姿を見て、愛おしさがこみあげてきた。小さな自分が不憫(ふびん)でいじらしくて可愛くて、思わず抱きしめたくなった。

 

 不思議なことに、抱きしめたいと思ったその瞬間に、ユリウスはその女の子を抱きしめていた。女の子は屈託(くったく)なく笑っている。つられてユリウスも、力なく微笑んだ。女の子を照らしていた光がユリウスをも包んだ。女の子からも温かみが伝わってくる。

 

 ――温かい……

 

 女の子がユリウスの手をつなぐと、ふっと光が消え、ユリウスたちの足元の地面がものすごい勢いで動き出した。そして気がつくと、二人はまぶしい光のなかに突入していた。

 

 まぶしさのあまり、ユリウスは思わず手を上げて光をさえぎろうとしたが、すぐにその光に慣れた。すると、女の子が、おめでとう、とユリウスの頬(ほお)にキスをして、どこから取り出したのか、色とりどりの花束を手渡してくれた。そのとき、どこかからトランペットの音が鳴り響いた。

 

「おめでとう!」

「おめでとう!」

「おめでとう!」

 

 トランペットに加えて、あちらこちらから、お祝いの言葉が聞こえ、だんだん大きくなっていった。

 

 あたりを見回すと、花、花、花、花のシャワーだ。正面には、ロシア正教の八端十字架が見える。いつの間にか、ユリウスは、光のなかで十字架に向かって歩いていた。見たこともない上質な生地のドレスを身にまとい、手には花束を持って。胸の奥からは喜びがあふれ出てくる。隣に誰かがいる。力強く安定していて頼りになる男性。

 

 ――もしかしてこれは結婚式?

 

 花嫁になることなんて、考えたことがなかったユリウスには、これは夢だということは分かっている。

 

 それにしても、なんて幸せな夢なんだろう。でも相手の顔ぐらいは見てみたい。誰だろう?

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