ユリウスの肖像

ベルリン情景
ベルリン編 特別編
着飾った紳士淑女たちが通り過ぎていく。
劇場に一人で訪れたダーヴィト・ラッセンは、シャンデリアの輝くホワイエをぐるりと見まわした。
ここベルリンでは、劇場でさえも時計のように整然としているように感じられ、どこか鷹揚な感じがするウィーンが恋しくなる。ここには知り合いもいないのだから、なおさらだ。
シャンパンを飲みにバーに向かう途中で、ダーヴィトは思わず足を止めた。シャンデリアの光を受けて輝く金髪が彼の目をとらえたのだ。若い女性だった。
彼女は別の方向を向いていたので、はっきりと顔は見えなかったが、ダーヴィトの記憶のなかの人物と重なった。
彼女は最先端のゆったりとしたドレスに身を包み、髪を流行のスタイルに結っていた。その身なりは、ダーヴィトの知っている彼女とはほど遠かったが、本能が彼女に違いないと告げていた。
その女性は視線を感じたのかダーヴィトのほうを振り向いた。彼女はダーヴィトの姿を認めるなり、あたふたし出して、迷子の子どもが母親を探すように辺りを見まわした。その様子がひどく可愛らしい。
ダーヴィトが微笑んで彼女に近付くと、彼女は目を見開いた。
「失礼、お嬢さん、少しお話しても?」
紹介もなしに見知らぬ若い女性に声をかけるのは、マナー違反だ。しかし、ダーヴィトはそうせずにはいられなかった。
彼女は目を見開いたまま、口をパクパクさせた。
「あ、あの」
やはり彼女だ。ダーヴィトは微笑んだ。
「バイエルンのレーゲンスブルクにいたことは?」
彼女は、おそるおそる声を出した。
「ダーヴィト?」
「やはり、ユリウスだね?」
ダーヴィトは明るい声をあげて笑った。そのときだった。年のころは三十歳前後だろうか。さっそうと男が現れた。
「ユリアーネ、探したぞ。おまえを紹介したい人がいる」
ユリアーネがいまのユリウスの名前のようだ。ユリウスは、外見だけでなく名前も女性になったようだ。
「クラウス、ほんの少しだけ待ってちょうだい。この方に紹介したいの」
一瞬の間、ダーヴィトの思考が止まった。クラウスという名で呼ばれたその男は、ダーヴィトの旧知のクラウスとは全くの別人だったからだ。
ユリウスはダーヴィトの様子におかまいなく、お互いの紹介を始めた。
「ダーヴィト、こちらはクラウス・フォン・キルヒバッハ。わたしの夫よ」
ダーヴィトの頭はさらに混乱した。聞き間違えでなければ、ユリウスは、かつて彼女が慕っていたクラウスとは全く別人の、クラウスという名の男と結婚したということだ。
音楽学校にいたときのユリウスは、本来の自分を押し殺し、性別を偽り、危なげで痛々しかった。そんなユリウスに心を寄せていたダーヴィトは、ユリウスが苦しみから解放されることを願ってきた。
どうやらダーヴィトのその願いは実現したようだ。いま目の前にいる彼女は、生命力にあふれ、幸福感でいっぱいだ。喜ぶべきことだが、ダーヴィトの胸に何か苦いものが走った。
そんなダーヴィトの心中を知ってか知らずか、ユリウスは、やや声を落として紹介を続けた。
「クラウス、こちらはダーヴィト・ラッセンさん。音楽学校で知り合ったの」
男たちが握手と軽いあいさつを交わして、キルヒバッハがその場を辞そうとすると、ユリウスがあわてて言った。
「クラウス、待って。ダーヴィトを夕食にお誘いしたいわ。いいでしょう?」
「もちろん、女主人には客を招待する権限がある。音楽学校での興味深い話も聞けそうだ」
ユリウスは「音楽学校での興味深い話」に一瞬顔をこわばらせた。相変わらず感情がよく顔に出るようだ。夫はそんな妻を優しい目で見た後、ダーヴィトに向き直った。
「そういうわけで、我が家のささやかな夕食の招待を受けていただきたいのだが、ラッセンさん」
「もちろん喜んでお受けしますよ」
夕食会の日にちが決まると、キルヒバッハ夫妻はどこかの誰かにあいさつをするために、行ってしまった。さほど気乗りしていなかったベルリン滞在がおもしろくなりそうだ。
ダーヴィトがキルヒバッハ家を訪れると、二匹のシェパード犬から歓迎を受けた。居間では、四十歳代後半だろうか、にこやかな女性が待っていた。
「こちらは、わたしの大好きなお母さまよ」
キルヒバッハ家の食事はすばらしかった。新鮮な食材をいかしたシンプルな料理で、さまざまな食感が楽しめるように工夫がされていた。料理人の腕とセンスに感嘆する。
ワインも素晴らしかった。アーレンスマイヤ家所有の果樹園のワインだそうだ。しかし、キルヒバッハ夫妻は、ダーヴィトと年配の女性にはワインを勧めるものの、自分たちはそれぞれ一杯ずつしか口をつけなかった。
聞けば、夫の兄がアルコールで不幸な目にあって以来、一家は酒類を自制しているらしい。ユリウスも夫に合わせている。だが、客人にはおおいにワインを楽しんでもらいたいそうだ。
笑い声とともに、おだやかで愉快な時間が流れていったが、やがて皆の声が遠くなっていき、そして何も見えなくなった。

窓から射し込んでくる光で目覚めたダーヴィトは、目をこすりながらベッドから起き上がった。
ユリウスの夢を見た。夢のなかの彼女は、はつらつとした若く美しい女性になっていた。
夢の中とはいえ、ユリウスが人妻となっていたのには驚きだ。しかし、夢の中の彼女の姿はありありと目に浮かぶのに、夫のほうは名前ばかりか顔つきや背丈、体格など何ひとつ思い出せない。
ユリウスとその夫から夕食に招かれた。夫妻の家には犬がいたほか、もう一人女性がいたが、彼女の名前も姿もはっきりしない。楽しい会話と素晴らしい料理とワインに舌鼓を打った感覚は残っているが、料理の種類も交わした会話も何一つ思い出せない。
夢というのは、そんなものだ。
ダーヴィトはガウンを羽織り、机の上の手帳を手に取った。中には新聞記事の切り抜きがはさんである。ベルリンを訪問した兄がたまたま持ち帰った新聞を、ダーヴィトがたまたま気まぐれで手に取ったときに、たまたま目に入った記事だ。
それは、ユリアーネ・フォン・アーレンスマイヤ嬢の死亡記事だった。名家の家族が亡くなったときには、死亡広告がしばしば新聞に掲載されるものだ。だが、それは、事故死を報じる記事だった。
ダーヴィトはアーレンスマイヤという姓から、すぐさまユリウスを思い起こした。ユリアーネという名もユリウスにちなんでいるようにも思われる。
ダーヴィトにとってユリウスはすでに過去の思い出になっていたとはいえ、もし彼女だったらと思うと気になって仕方がなかった。
詳細を知るためにベルリンの新聞社に照会したところ、帝国警察の警部に聞くようにとの返事だった。その警部は口が固いのか忙しかったのか、部外者にはけんもほろろだった。だが、なんとかユリアーネ・フォン・アーレンスマイヤ嬢の後見人の名前を教えてもらった。
後見人のクラウス・フォン・キルヒバッハ少佐に手紙を書いたが、返信には新聞記事以上のことは記載されていなかった。少佐は、ダーヴィトがユリアーネのことを嗅ぎ回っている目的を量りかねているようだ。亡くなったとはいえ、被後見人を好奇の目にさらすつもりはない、と婉曲(えんきょく)に書いてきた。
そこでダーヴィトは、音楽学校でのユリウスの様子を書いて、対面にまでこぎつけたのだ。
「どうかしたかね」
参謀本部の少佐というからには、相応の年齢だと想像していたが、目の前の男はずいぶん若い。
「失礼しました。少佐というからには、もっと年上の方を想像していましたので」
「人事というものは、ときには不公平なものだ」
若くして少佐に昇進した男だ。隙がない。だが、感じは悪くない。
ダーヴィトが着席すると、コンソールに置かれた写真が目に入った。ダーヴィトは再び立ち上がって写真に近付いた。
「これは、ユリウスですね。元気そうだ」
写真には、ユリウスの他に女性二人と男性三人が写っている。
「そして、こちらがあなたですね、少佐?」
ダーヴィトが右端の男性を指差すと、少佐はうなずいて写真のなかの人物を紹介した。左から、少佐の兄とその妻、父親のキルヒバッハ伯爵、ユリアーネ、ユリアーネの母親代わりのニッツ夫人だそうだ。ユリウスがユリアーネと呼ばれるようになって初めての夏に、キルヒバッハ伯爵の領地で過ごしたときの写真だという。
居間にはユリウスの写った写真が他に二枚飾られていた。一枚には少佐とニッツ夫人が、もう一枚には二匹の犬がユリウスとともに写っている。ユリウスは少佐にとって大切な存在だったようだ。
「父親の代わりをする兄のつもりでいた。兄というには年齢がやや離れているが、妹というのは、こんなにかわいいものかと思ったものだ。彼女には振り回されもしたが」
少佐は写真のなかのユリウスを懐かしそうに見つめながら、そう言って小さく笑った。
「君はユリアーネが女だと気付いていたそうだが、他にも気付いていた学生がいたのではないか。十代半ばともなると、性別を偽ることは簡単ではないはずだ」
なかなか的を射た質問だ。ダーヴィトは、クラウスとイザークの顔を思い浮かべながら、自分の知る限り二人は知っていたことを話した。
「ぼくも彼女を見ていて、ひやひやしたものですよ」
ダーヴィトは、ユリウスが女であることを隠している以上、他の学生にも気付かれないように、かつ自分が気付いていることを彼女に悟られないように、できる限りのことはしたのだ。
「おかげで、僕は特殊な趣味の持ち主だって噂になりましたよ」
これには少佐も笑いを抑えきれずに、小さくふき出した。
「それは災難だった。そうまでして君が彼女を守ってくれたことに感謝する。しかし、彼女は君たちの努力をわかっていたのか、いなかったのか。おそらく後者だろう」
ダーヴィトが同意して笑ったところで、少佐が続けた。
「だが、君の努力に気付かなかったとしても彼女を責められまい」
彼女が女だと知っていたのは母親だけだったが、その母親の死によって、まだ十代の無力な少女は一人取り残された。たとえて言うなら、綱渡りの最中に命綱や安全網が外されたために、一歩踏み違えれば一巻の終わりという状況だったのだ。
彼女は、罪の意識に苛まれながら、女だと見破られることをおそれ、心休まることもなく、他者の気持ちを考える余裕などなかったと少佐は考えている。
「彼女は家族をもあざむいていたのですか」
ダーヴィトはため息をもらして肩を落とした。その可能性も想像してはいたものの、彼女の事情は何一つ知らなかった。知ることはできなかった。知ろうとして彼女に触れれば壊れてしまいそうだったからだ。
そんなユリウスに対して、ダーヴィトにできたのは、せいぜい「自分を大切にしろ」と伝えることぐらいだった。
少佐は、ベルリン行きの汽車の中でユリウスと出会い、彼女の奇異な様子からすぐに少女だと見抜いたということだ。最初は家出少女だと考えたらしい。
「君は何がきっかけで知ったのかね」
「握手したときの手の感触が男子とは違っていたことです」
ダーヴィトがイザークに「唇に触れればわかる」と言ったのは、その場面を見られたことを知っていると奴に知らしめるためだ。後見人には口付けをしたことは話すべきではない。
「他の二人というのは、君と同じバイオリン科の生徒かね」
「一人はバイオリン科ですが、もう一人はユリウスと同じピアノ科でした」
それを聞いた少佐はダーヴィトに断って席を外すと、手にバイオリンを持って戻って来た。
「これは」
クラウスのストラディバリウスだった。少佐はダーヴィトをまっすぐに見た。
「君はこのバイオリンの持ち主を知っているようだ。これほどの楽器を持つ生徒が音楽学校にいたとは」
「これは寮の隣室だった奴のものです」
ダーヴィトは、ユリウスが彼を慕っていたことや、彼が姿を消した後に、ダーヴィトが骨董品屋で偶然見つけて彼女を元気づけようと渡したバイオリンであることを話した。
「彼の名は何というんだね」
ダーヴィトは少しためらった。ユリウスが性別を偽っていたように、クラウスもまた自分の素性を隠していたからだ。ダーヴィトは、クラウスの隠しごとにも素知らぬふりをしたものだ。クラウスもまたダーヴィトの隠れた貢献に気付くことはなかった。
ダーヴィトは少し間を置いてから答えた。どうせ彼の名も偽名だろう。
「クラウス・ゾンマーシュミットです」
少佐は「そうか」とつぶやくように言った。
「実はこのバイオリンについて、つてを頼って調べたのだ」
少佐の顔がやや厳しくなった。
ストラディバリが製作したバイオリンは数百挺現存する。したがって、断定はできないが、ロシアの貴族でありバイオリニストでもあったミハイロフ侯爵の楽器ではないかということだった。そのミハイロフ侯爵は反逆罪で処刑され、彼のバイオリンは行方知れずになった。同時に彼の弟も姿を消したという。
「その弟がおそらくゾンマーシュミットだろう」
ダーヴィトは言葉につまった。いくつか思い当たるふしがあったからだ。
クラウスがロシア語の書籍や雑誌を持っているのをかいま見たことがある。ときおり聞こえた彼の独り言もロシア語のようだった。危険なことに関わっているような形跡もあった。意味深な言葉と部屋の鍵を残して留守にしたと思ったら、レーゲン川で身元不明死体があがったときに居あわせた。それは偶然だとは思えなかった。そこでは誰かに監視されているような気すらした。
「驚いたかね」
「ええ、しかし、言われてみれば、彼に関する疑問点の説明がつきます。ただ、ユリウスはそのことを知っていたのですか」
「いや」
ユリウスが知っていたのは、アレクセイ・ミハイロフと彼の兄の名前だけだったそうだ。
「アレクセイ・ミハイロフという名の男がロシアの反逆者の仲間であることは、彼女には知らせた。その上で慎重に行動するように求めた。ロシア当局から疑われかねないからだ」
少佐はあくまで被後見人を守ろうとしていたようだ。
「話をバイオリンに戻すが、君が骨董品屋で購入したものであれば、君が管理するほうが問題がないだろう」
その理由は、バイオリン科の生徒なら骨董品屋で有名な楽器を迷わず購入しても不自然ではないこと、骨董品屋がダーヴィトが購入したことを証明できること、よってロシアの反政府勢力とのつながりを否定しやすいことだ。
少佐は有望な学生や若手演奏家に貸与することを考えていたようだった。だが、いわく付きの楽器はロシア当局の疑念を招きかねないため、密かに収集家に売却することも考えたという。
「有効活用して欲しい。ユリアーネもそれを願っているだろう」
ユリウスはニッツ夫人とポーランドに旅行中に行方不明になったのち、火災事故の現場で遺体となって発見されたそうだ。行方不明になったときは一人で行動していたらしい。
少佐は確認のために現地にかけつけたが、遺体は損傷が激しく見分けがつかないほどだったそうだ。ユリアーネだと判断したのは、彼女が身に着けていたネックレスによるという。
「だから、あの遺体はユリアーネではないと思うことにした。この空の下のどこかで生きているに違いないと」
そう言う少佐は遠くを見ているようだった。
「ユリアーネが生きていたら、彼女を守ることのできる男に半ば強制的にでも嫁がせただろう。危険なことに自ら首を突っ込んでいく彼女には、制止する人間が必要だ」
ダーヴィトは、「結婚相手は、あなたですか」という言葉をのみこんだ。そうだ。夢のなかのユリウスの夫は目の前にいる男だった。少佐の言葉や態度から、ユリウスへの愛情が伝わってくる。
「音楽学校でも無茶をしていましたが、女の子になっても変わらなかったのですね。ニッツ夫人も苦労されたことでしょう」
ユリウスは普段はニッツ夫人の元で暮らし、夫人とともに少佐をよく訪れていたそうだ。
「ニッツ夫人はおおらかな性格で、ユリアーネの行動に問題があっても、たしなめる程度だった。おかげで私ばかりが小言を言うはめになった」
そのニッツ夫人は、いまは故郷のデンマークで暮らしているらしい。
話がひととおり終わると、少佐は玄関先までダーヴィトを見送った。少佐は、ダーヴィトが犬が苦手ではないことを確認すると、シェパード犬を呼び寄せて紹介した。ユリウスと写真に写っていた二匹の犬のうちの一匹だ。
「こいつはユリウスというんだ」
「ユリウス、ですか」
少佐はダーヴィトの戸惑いを察したようだ。
「こいつは偶然にも彼女と出会う前からユリウスだ。彼女にもかわいがってもらった」
軽く笑って言った。
手にバイオリンを持って、キルヒバッハ家を背にしたダーヴィトは空を見上げた。
ユリウスが泥沼のなかでもがいていたときには、自分はまだ学生で無力だったが、少佐には彼女の人生を立て直す力があった。偶然に偶然が重なり、ユリウスの精神は梏桎(こくしつ)から解放されたようだ。
偶然が重なると、それはもはや偶然ではなく運命だ。
居間で見た白黒の写真のなかのユリウスが、ダーヴィトの脳裏で鮮やかに色付き始め、微笑みかけてきた。それは、レーゲンスブルクにいたときに、ダーヴィトが心から欲したものだった。同時に、少佐の奇妙な言い回しを思い出した。
「ユリアーネもそれを願っているだろう」
まるで今現在ユリウスが生きて「願っている」かのように聞こえたのだ。おそらく気のせいだろう。それに、写真に写っていたもう一匹の犬はどうしたのだろうか。ニッツ夫人といるのだろうか。
そんなことを考えながらダーヴィトが見たベルリンの景色は、写真のなかのユリウスのように活気に満ちていた。
(2023.03.23)
