ユリウスの肖像
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涙の底 ー1905ー
ヴェーラとリュドミールが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「よかった。気がついたのね。ああ、もうこのまま永久に目を覚まさないかと思ったくらい長い間眠っていたのよ。よかったわ。リュドミールがそれは心配して。」
ヴェーラがほっとしたように僕の手を握って言った。
僕は、ぼうっとしていた。
「まだ痛むの?憲兵たちの話によると、あなたは何か叫びながら窓から飛び降りたそうよ。」
どうして、ヴェーラが僕の部屋にいるんだろう。
「ああ、急におしゃべりしすぎたわね。さ、横になって。」
目が覚めたばかりで、事情がのみこめなかった僕は、ぼんやりしながら力なく頷いた。
どういうわけか身体が痛む。何があったんだろう。
やがてぼんやりしていた意識がはっきりとしてきて、あのときの記憶が甦ってきた。
「うわああ!」
悲しみが胸から噴き上げ、僕は大声で叫んでしまった。感情を抑えきれずに、ヴェーラの前で声をあげて泣き出した。大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ユリウス、大丈夫、痛むの?」
「お願いだから、独りにしておいてくれ。」
僕は、つい声を荒らげてしまった。ヴェーラは、ただ心配していただけなのに。
*
ユスーポフ侯と馬車に乗っているときに、暴動に巻き込まれた。僕は、チャンスだと思った。そこで逃げ出さなければ、あの屋敷から一歩たりとも出ることは、かなわなくなるからだ。空き家で、うずくまって隠れているときに、何か月間も再会を待ち望んでいたクラウスが駆けこんで来た。天の計らいだと思った僕は、彼の胸に飛び込んだ。けれども、彼は僕が思ってもいなかったことを口にした。
「俺のことは忘れろ。故郷に帰れ。」
何という残酷な言葉。クラウスは、そう言い残すと、近くの窓から外へ飛び降りて瞬く間にその姿を消してしまった。その後のことは何も覚えていない。
クラウス、僕は君に会うためにロシアまで来たのに、どうして?
僕は、運命の力を信じて、言葉も分からない、見知らぬ国に、たった独りでやって来た。クラウスに会うことだけを考え、あの冷酷な男の屈辱的な言葉にも耐えてきた。なのに、彼は、ミュンヘンで僕を置き去りにしただけでなく、ここサンクトペテルブルクでも再び僕を突き放した。
僕はクラウスを必要としているのに、彼は僕を必要としていない。
涙があふれ出て止まらない。そのときのことを思い出すまいとしても、悲しみが襲ってきて胸がしめつけられる。身体に力が入らず、何も食べられず、シーツを涙で濡らすことしかできなかった。
悲しんでいると、さらに悲しみを引き寄せる力が働くようだ。僕は、かあさまにも見捨てられたことを思い出した。
かあさまは、とうさまの妾だったが、壊れた人形のように捨てられたという。僕は、かあさまのお腹の中にいるときから、とうさまに捨てられたことになる。かあさまは、とうさまへの復讐を企てた。とうさまの財産を僕に相続させるために、僕を男の子として偽って育ててきたのだ。僕はかあさまを必要としていたし、愛していた。けれども、かあさまに必要なのは男の子であって、女の子の僕ではなかった。僕は、望まれていない子だったのだ。僕は、大好きなかあさまの望みをかなえるために、男として生きてきた。それにもかかわらず、そのかあさまも、僕を残して先に逝ってしまった。
かあさま、僕は、あなたのために、無理を重ねてきたんだよ。なのに、どうして僕を独り残して逝ってしまったの?
僕は、誰からも必要とされていない。生まれてきてはいけなかったんだ。こんな考えが何度もわき起こり、堂々巡りする。もう、考えるのはやめよう、と外を見やる。それでも勝手に涙が出てくる。部屋の片隅に生けられた花を見ても、愛でられる花とは対照的な自分に気付いて悲しくなる。
何のために、この国に来たのだろう。
クラウスに再び捨てられるために来たのだろうか。
クラウスは僕を愛していると思っていたし、彼に会えば何とかなると思っていた。僕たちは運命の窓で出会った、運命の恋人同士なのだから、結ばれることが宿命のはずだと。
ミュンヘンのあの屋敷で、ロマンスを演奏したときには、クラウスはドイツで演奏を続けたがっていた。しかし、祖国ロシアに戻らなければならない、と板挟みになっていたようだった。だから、ミュンヘンのあの屋敷で、僕が一人置き去りにされたときも、捨てられたなどとは思いもしなかった。けれども、それは僕の勝手な思い込みだった。そのときから、僕が必要とされていないことは明らかだ。あの冷酷な男も、革命の闘士が女などに目もくれるはずがない、愚かな女だ、と僕を嘲笑った。
イザーク。彼とも伝説の窓で出会った。僕の数少ない大切な友達だったが、それ以上にはなれなかった。だから、伝説は伝説に過ぎず、現実とは違うのかもしれない。それにもかかわらず、二人は結ばれる運命なのだと信じ込んでいた。僕が愚かだっただけだ。
何日もベッドの中で、泣き続けた。どうして涙が止まらないんだろう。こんなに多くの涙が、いったいどこに貯えられているんだろう。涙が枯れるほど泣いたと思っても、尽きないのは不思議だ。泣き疲れて休んでも、目が覚めると、また涙が流れ出る。
*
扉をたたく音がした。
「僕だよ。リュドミールだよ。ユリウス、開けて」
僕は答える気力もなかった。
「ユリウス、どうしちゃったの。生きているよね」
「独りにしておいてくれないかな」
力なく答えたが、幼い相手は納得しないようだ。仕方なくドアを開けると、甘い匂いのりんごのケーキと香り高い紅茶が運ばれてきた。
「ユリウスといっしょに食べたいんだ」
リュドミールが照れくさそうに笑った。
乳歯が抜けた前歯が、まだほんの子どもだということを物語っている。幼くて、しかも何もかもに恵まれた子どもに、傷付いた者の気持なんか分かるはずがない。その無邪気さがうとましく、僕は断りたかった。そもそも誰とも話したくなかったし、何をする気力もなかった。食べる気力さえもなかったのだ。
「ユリウス、目が真っ赤だよ。泣いていたの?僕、毎日、お花を届けてもらっているんだけど、届いているよね?ユリウスが元気になるために、僕にできることがあれば、なんでもするよ?」
リュドミールが僕を元気付けようとしている。だが。
「しばらく独りになりたいんだ」
僕は、幼い相手の心遣いに感謝の言葉も添えずに、きっぱりとはねつけた。小さなリュドミールがしょんぼりした。
リュドミールを傷つけてしまったかもしれない。僕が傷ついているからといって、子どもを傷つけてもいい、という理由にはならない。
クラウスと再会して意識を失った後、この屋敷で目が覚めたときのヴェーラやリュドミールの様子が思い浮かんだ。
心配そうにのぞきこむ黒と茶の瞳。そして僕の意識が戻ったのが分かると、ほっとしていた二人。思えば、最初に出会ったときもそうだった。見ず知らずの素性も知れない人間なのに、しかも男のなりをしていた怪しげな人間なのに、親身になって介抱してくれたヴェーラ。意識が戻り、フランス語で話せると知るや喜んでくれた。
どうしてこの姉弟は、血のつながっていない、身元もはっきりしない自分のことを、こんなにも心配してくれるのだろう?
僕はこの姉弟の親切に報いてきただろうか?
僕は自分の行動を恥じた。
「せっかくだから、いただくよ」
リュドミールの視線を受けながら、僕は甘いりんごのケーキをつつき、ロシア人がやるようにジャムを食べながら紅茶を流し込んだ。リュドミールの顔がほころんだ。
「ありがとう。君は優しいね。兄君とは大違いだ」
「ユリウス、にいさまは優しいよ」
優しい?あの男が?
クラウスに会いに行こうと決めたのはいつだったろうか。
かあさまが死んだ後だ。結局、僕は現実の苦しみから逃がれるために、ロシアに行くことを決心したのだ。犯した罪。次から次へと起きる事件。たった一人で周囲を欺いて男として生きていく恐怖。逃避の名目に、彼への愛を掲げていたのだ。
コンソールの上の花が目に入った。花瓶の数が増えているようだ。シンビジウムの隣には、バラ、その隣には名前の分からない別のランの花、その隣には、といった具合に。いずれも温室で育てられた貴重な花々だ。悲嘆に暮れているときは、ぼんやりとしか視界に入らなかった美しい花々が、僕に微笑みかけてくれているようだった。前歯の欠けたリュドミールも、にこにこしている。
僕もこれらの花のように微笑むことができるだろうか。
