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Group of White Flowers

春の庭 ー1906ー

庭の片隅にまで来たときだ。植込みに囲まれた一画から、女性の歌声が聞こえた。使用人の誰かが休憩しているのだろう。だが、聞こえてくる歌は、使用人たちがよく歌っているような耳慣れたものではなかった。気付かれないように、歌声のする一画まで近付いた。

樹木が視界を遮り、それが誰であるか識別できなかったが、白いドレスを着た女性がいるようだ。確かめるために、植込みの通路にさらに近寄った。


白いドレスの女は、木の陰に隠れるようにして、1人で何か歌いながら、嬉しげにドレスの裾を持ち上げ、スキップしては、回って、踊っている。ゆるく結われた金髪は、木々の隙間から射し込む太陽光に透けて光り、おくれ毛が、身体の動きに合わせて揺れている。


ヴェーラの知り合いか?ヴェーラは、お茶会に出かけていると聞いていたが。


どこの誰なのか皆目見当がつかなかったが、その女性が楽しげにくるりとこちらに身体を向け、深呼吸をするように顔をあげた時に、それがユリウスだとやっと気がついた。


無邪気で無防備な顔をしていた。あんな表情を見るのは初めてだ。

彼女は、次に、子どものように両手を広げて、その場で回転をし始めた。まるでリュドミールと同じ年頃の子どもだ。だが、その生命力あふれる姿に目が離せなくなった。



僕はドレスを着て、気持ちが華やいでいた。やっぱり女の子だったんだと実感する。少しばかり気恥ずかしかったけれども。


以前、男子校で劇のためにクリームヒルト役の衣装を着た時は、自分が女だと分からないように、絶えず細心の注意を払わなければならなかった。神経がすり減っていた。

その緊張感はここでは必要ない。女であることを隠す必要はないのだから。

ただ、いつもと違う自分の姿に多少の違和感があるだけだ。


使用人たちがどういうわけか、用もないのにご用伺いにやってきたり、さりげなく用を作ったりしては、入れ替わり立ち替わり、僕の部屋にやって来る。見世物になるほど不格好なんだろうか。見るに堪えられないほどではないと思うのだけれども。

自分でさえ少々きまりが悪いのに、物珍しげに次々と誰かに見られて、話のタネにされるのはごめんこうむりたい。


人目につかないように1人でこっそりと庭に出た。庭園の小径からは見えにくい、植込みに囲まれた場所を見つけた。ここなら誰の視線も気にしないでいられる。


子どもの頃、たった1度だけ白いドレスを着せてもらった時の喜びを思い出す。僕は、無邪気だった子ども時代に戻っていた。

両手を大きく広げて、心の中で叫んだ。

「僕は、女の子!」


庭中から春の息吹を感じる。寒い冬を耐えて、吹き返す生命。復活。豊かな色彩の季節が始まろうとしている。復活しようとしている生命それぞれのエネルギーが、それぞれのメロディーを持ち、響き合っている。

自然のエネルギーが、音楽を創り出し、僕の体を動かし始めた。感じるままにハミングし、新しいドレスの裾を持ち上げ、スキップしたり、くるりと回ったり、童心にかえって、1人歓声をあげた。


エネルギーを得た体は、なおも勝手に動き続ける。

子どもの頃によくやっていたように、両手を広げて、くるくる、くるくる、とその場で回ってみる。

くるくる、くるくる。春の庭が回りだす。

くるくる、くるくる。くるくる、くるくる。世界が回る。僕が回る。

ドレスの裾が広がり、独楽のように回る。ズボンでは、こんなふうにはいかない。僕は笑い声をあげて、調子に乗って回り続けた。気がついたら、目もくるくる回ってきた。本当に子どもだ。目が回って気分が悪くなった僕は、よろめきながら近くの白樺の木にもたれかかった。くらくらして気持ち悪いが、気持ちいい。心に抱えていた苦しみや悲しみの感情が、くるくる勢いよく回ったときの遠心力で、吹き飛ばされたようだ。古きが去って、新しきがやって来る感じ。僕は肩で呼吸をし、思い切り体を動かした後の心地良さを味わっていた。


パキッと枝を踏みしめる音が近くでした。僕は、驚いて音のする方に顔を向けた。僕は目の前の事実が幻影であって欲しいと願った。

どうしてこんな時間に、こんなところに、ユスーポフ侯がいるんだ?

思いがけない男がじっと自分を見つめていたのに気がつくと、それ以上の視線に耐えられず、反対方向に駆け出した。

どのくらい、あそこで見ていたんだろう?自分の子どもじみた姿を見られたことが、ひどく恥ずかしい。


広い庭の一画にある薔薇園に駆け込んだとき、着慣れないドレスの裾を踏みつけてしまった。

危うく転びそうになったところを、ちょうど侯爵に追いつかれて、腕をつかまれた。転ぶのは免れたが、ばつの悪いことといったら、この上ない。こんな場所で転んだら、体中に薔薇の棘が刺さったことだろう。仕立てたばかりのドレスも台無しだ。でも、僕は、その相手に、どう対応したらいいのか分からずに、とまどっていた。


「どうした、どこに逃げるつもりだ?」

と言う侯爵の目には、微かな笑みが浮かべられていた。

僕が驚きと恥ずかしさで何も言えずにいると、侯爵の大きな両手が僕の腰をつかんだ。白いドレスの裾がふわっと宙に舞った。僕の目線がいっきに高くなった。


「思ったより軽いな。白い蝶のようだ」

侯爵が眩しそうに僕を見上げる。少し落ち着いたはずの僕の心臓の音が再び大きくなり、胸から熱いものが込み上げてきた。「やめて」という言葉も喉につまってしまった。きっと、耳まで真っ赤になっていただろう。恥ずかしさのあまり僕は目をそらした。


母子家庭で育った僕には、こうやって父親に抱きあげられることが夢だった。子どもの頃、まわりの子どもたちが父親の太い腕で抱きあげられるのを、うらやましく思って見ていた。その夢が、それから十数年後の今実現した。全く考えたことのなかった形で、想像だにしなかった男の手によって。


侯爵が僕を宙に持ち上げたまま、くるりと回った。ところどころに薔薇の固い蕾が見える。


ようやく僕の足が地面に触れたと思ったら、今度は、その場でくるりと1回転させられ、着ていた白いドレスが花が咲いたようにふわっと膨らんだ。


「つきあってやる。1人で踊るより相手がいたほうがよかろう?」

僕はうつむいて、もじもじした。

「あの、踊れないんです。その、いつも男性のステップばかり踏んでいたから、だから、女性のパートは踊れないんです」

侯爵の口から小さな笑いが漏れた。

「笑わなくてもいいじゃない」

僕が半ばふくれ面で抗議すると、教えてくれると言う。侯爵はいつになく上機嫌だ。

侯爵は思いのほかダンスも女性をリードするのも上手だ。力強く、きびきびした動作でありながら洗練されている。僕の方は、いつもと逆のステップと慣れない相手にまごつき、彼とぶつかってしまった。彼の体温が伝わってきて、僕の胸が熱くなる。

いつの間にか僕達は見つめ合っていた。


「どうしたんだ、その姿は?」

「イースターのお祝いの席で、きちんとドレスを着るようにと。ヴェーラが。それで、新しくドレスを仕立ててもらって、試着したところなの。皆に見られるのが恥ずかしくて、ここに逃げてきたんです」

しどろもどろになって、消え入りそうな声で、しかも少し悔しそうに答える様子を、彼が目を細めて見ている。


一層深くなる彼の瞳に、ますます心臓が高鳴り今にも爆発しそうだ。

そんな僕におかまいなしに、みるみる黒い瞳が近付いた。僕がその視線に耐えられなくなり目を伏せると、彼の指が僕の顎にかかった。彼の唇が近付いて、僕の唇に重なった。キスが少しずつ深くなり、やがて口の中が蹂躙されるように激しくなった。身体の芯がかっと熱くなり溶けてしまいそうだ。いつの間にか彼の首に腕を回し、寄りかかっていた。


長いキスだった。終わるころには、僕は1人で立つことができずに彼に体を預けていた。僕をぎゅっと抱きしめる力強い腕。本来いるべきところに帰って来たような温かさと懐かしさを感じる。このぬくもり、この力強さ、この安心感、覚えがある。でも、いつ、どこで?


今は考えるのをよそう。このまま、彼の腕の中で蕩けていたい。

彼は、僕の重み全てを受け止めていた。


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