ユリウスの肖像

子守り -1911ー
「ユリウス、準備はできた?」
僕の女神が部屋から現れた。
「まるで、天から降りてきた女神のようだ。今日は一段ときれいだね」
目を細めて僕を見つめる彼女の手を取り、白いシルクの手袋の上に唇を近づけた。手首には兄から贈られた華奢なエナメル細工のブレスレットをつけている。おそらくファベルジェのものだろう。身につけている宝石類は、たったそれだけだった。かなり控えめだ。
「リュドミールももう一人前の紳士だね。口も立派になって」
からかうように言う。
「本心で言っているんだよ」
「それが、立派ということ。君にエスコートしてもらうのは嬉しいけれど、誰かに恨まれたくはないよ」
女神の微笑みに僕の心はとろけそうだ。頬が緩んでいるに違いない。
あなた以外の女性となんて考えたくない。
「そんな人、いないよ」
憧れの女神をエスコートして出かけるのは、僕の夢だった。
いつもは兄に守られているあなたを、今日は僕が守る。
「おかあさま、すごくきれい」
珍しくドレスアップした女神を黒い瞳が捕えると、小さな手を伸ばしてシンプルなドレスにまとまわりつく。
サーシャは男装姿の母親よりも、ドレスを着た母親の方が好きなようだ。
ドレスを着ないおかあさまなんて、おかあさまじゃない、他の子のおかあさまは皆ドレスを着ているよ、と以前駄々をこねていたことがある。
「おかあさまは、今からお出かけするから、いい子にしておやすみなさいね。ヴェーラの言うことをよく聞くんだよ」
女神がかがんで愛息子の額と頬にキスしたときに、ちらりと見えた深い胸ぐりからのぞく白い陶器のような肌が艶めかしく、僕の胸をどきどきさせる。
「サーシャのことは任せておいて、久しぶりの外出を思い切り楽しんでいらっしゃいな」
姉がサーシャの小さな手を上に挙げて、バイバイと振る。
「おかあさま、いってらっしゃい」
母親が自分を置いて出かけることに慣れていない息子は、少し不安そうだ。
「ねえ、寄りたいところがあるんだ」
僕は途中で馬車を止めて写真屋の前で降りた。
「写真を撮ってもらおうよ」
今まで屋敷で写真屋を呼んで撮ったものは全て兄や姉、サーシャと一緒のもので、記念写真のようなものだ。ユリウスと二人きりでうつった写真は一枚もない。美しく装ったユリウスと士官学校の制服に身を包んだ僕は、写真機の前に二人で並んだ。
もう彼女の背を追い越してバランスも取れている。完璧だ。考えるだけ頬が緩む。
彼女を見降ろすと、また胸の谷間に目がいってしまい、僕の心臓が再び勝手に高鳴ってしまった。
こら、リュドミール、どこを見ているんだ。
「熱いの?汗をかいているよ」
無邪気で優しい青い瞳で見つめられ、体中が火照った。
「ユスーポフ家のリュドミール様よ。今年から士官学校ですって」
「りりしく成長なすったこと」
「隣にいらっしゃる美しい女性はどなた?」
劇場では僕たちのことを噂をしているのが聞こえた。
「まあ、リュドミール、ほんのしばらく見ないうちにまた背が伸びたわね」
偶然にもゼナイーダ叔母と鉢合わせした。
「そちらの美しい女性はどなた?」
兄はユリウスをできるだけ世間から離し、僕たちの母親代わりともいえる叔母に対しても、その存在を明らかにしてこなかった。事実上、今日が初めての対面だ。
「こちらは、僕の子守役をしていましたユリア・ベッカーさんです。ユリア、こちらは僕の叔母のプチャーチナ公爵夫人」
「はじめまして。ご高名はかねがねお伺いしておりますわ。お会いできて光栄です」
ユリウスが微笑みながら挨拶をする。ユリウスって社交も上手なのかも。
「ドイツ系の方なのね。ところで、リュドミールの子守りはさぞたいへんだったでしょう?」
上品に口元を扇で隠しながらもユリウスを見定めているようだ。ユリウスの華美でなく、すっきりとしていて女性らしくドレスアップした姿は、好感を与えたようだ。
「叔母上!僕はそんなに聞きわけが悪かった記憶はありませんよ」
「そうね、聞き分けのいい男の子は、ユスーポフ家の男の子ではないわ」
上品に笑いながら扇をぱちっと鳴らす叔母に、僕の女神は隣でにこやかに答える。
「リュドミールはかなり活発な子どもでしたが、驚くほどの思いやりをみせることもありましたし、私自身、何度も彼の無邪気な笑顔に励まされたものです」
そうでしょう、ユスーポフ家の子どもたちは皆素晴らしいのよ、と言わんばかりに満足そうに頷いた。
叔母が、息子のフェリクスが、と言いかけたとき、オーケストラの音合わせが始まり、あちこちで歓談していた観客たちはそれぞれの席に着いた。叔母が別れ際に小声で僕に耳打ちした。
「素敵な女性ね?またお会いしたいものだわ」
人脈の広い叔母の目にとまったようだ。
僕は、隣で熱心にオペラに見入っている女神の存在に気を取られ、オペラ鑑賞どころではなかった。ストーリーも演目も覚えていないほどだ。
どうして子どもの頃は、あんなに無邪気に彼女にまとわりつけたんだろう?
ときどき彼女のサファイアの瞳が潤み、きらきらと輝く。
年下の僕が言うのも変だが、まるで子どもだ。
帰り際に姉の友人に呼び止められた。確かアナスタシアといった。ご主人を亡くしたあと演奏活動を始めた新進バイオリニストだ。
また、後日、姉に会いに行くからよろしくお伝えくださいと言っていた。
夜が短くなったといえ、終演後はあたりはすっかりと暗くなっていた。
帰りの馬車の中で、彼女が聞いた。
「リュドミール、オペラは楽しくなかった?」
「興味深い内容で、楽しんだよ」
「うそ。ずっと心ここにあらず、といった感じだった。じゃあ、どんな内容だった?」
僕は彼女の瞳をまっすぐと見つめた。
「今日のリュドミール、少し変だよ。何かあったの?」
はい、何かありました。あなたに狂わされてしまいましたよ。
僕は彼女の腕をつかんで、兄がやっているようなキスをして、きつく抱きしめてしまった。
彼女は抵抗しなかったが、僕の頭をなで、ごめんね、と呟いた。その言葉が僕の胸に突き刺さってきた。
兄が帰宅していた。
「ただいま戻りました、兄上」
「ただいま、レオニード」
書斎机をぐるりと回りこみ、足組みをして座っている兄にユリウスがキスする。
久しぶりの外出は楽しかったか、ええ、とやり取りが続く。
「道中、つつがなかったようだな」
僕は写真を撮ったこと、叔母に会ったことなど報告した。
今日の美しい姿のユリウスの写真ができたらお届けしますよ。
兄の隣で背筋を伸ばして立っているユリウスは、なんて女性らしく輝いているんだろう。
兄は、ユリウスが近くにいるとき、心なしかゆったりとしてみえる。彼女の存在がさらに兄の貫禄と存在感を高めている。
二人そろって一つの絵を構成している。
兄上にはかなわない。
「ご苦労だった」
「ユリウス、あなたは兄上の隣にいるときが一番美しいよ。兄上のそばを離れちゃだめだよ」
兄は少し怪訝な顔をしたようだったが、ユリウスは恥ずかしそうに俯いた。その様子も可愛らしい。
「それでは、失礼します。おやすみなさい、兄上、ユリウス」
おやすみと二人が声をそろえて言う。
このあと二人はいいことするんだろうな。
後日、写真ができあがり、ユリウスが一人でうつっている写真は、兄を満足させた。
兄に内緒のもう一枚の写真には、にっこりとほほ笑む大人の女性と少し顔をひきつらせた少年がうつっていた。
まさしく、子守役の女性と、子どもの僕だった。