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​反撃


部屋にドンという音がとどろいた。アレクセイがこぶしでテーブルを大きく叩いたのだ。

ユリウスは、その音とアレクセイの形相に、びくりと肩を震わせ、顔をこわばらせた。


間髪入れず、アレクセイがたたみかけるようにどなった。


「レオニード、レオニード、レオニード、そんなにあいつのことが心配なのか⁉ おれたちが倒そうとしている相手なんだぞ。それほど言うなら、あいつのところへ帰れ。そして、金輪際おれの前に姿を見せるな」


激昂したアレクセイが言い終わるか終わらないかのうちに、今度はテーブルがアレクセイをめがけてひっくり返り、床がずしんと音を立てて震えた。机の上にのっていた茶器は床に落ちて、がしゃんがしゃんと音を鳴らしながら砕け散った。


幸いにも、反射神経のいいアレクセイは、とっさに後ろに飛び退いたので怪我はなかったが、あっけにとられている。同じ席にいあわせたガリーナとフョードルは、アレクセイ以上にあっけにとられている。


テーブルをひっくり返したのはユリウスだった。アレクセイが机を叩いたことに対して即座に反応したのだ。 


ユリウスがこんな行動に出ると誰が予想できただろうか。彼女は、いつも不安げで、記憶を失う前の彼女を知る唯一の存在であるアレクセイの顔色を伺って、おどおどすることが多かったのだから。


だが、このときは、いつものユリウスではなかった。机を叩いた音がユリウスの中の何かを呼び覚ましたかのようだ。


ユリウスは、机をひっくり返すだけでは飽き足らなかったのか、いまにもアレクセイになぐりかかるような様相だった。


案の定、ユリウスが、つかつかとアレクセイに近寄ると、「うっ」というアレクセイの低いうめき声が聞こえた。ユリウスがげんこつをつくり、アレクセイのみぞおちに一発くらわせたのだ。そして、アレクセイをにらみつけた。


「ああ、だったら帰るよ。レオニードには世話になったんだ。その恩人を心配するのがいけないのなら、君は人でなしだ。犬や猫だって恩に報いるのに」


ユリウスの声が堰を切ったようにだんだん大きくなった。


「君はぼくを二回も置き去りにしたって言ったね。よほどぼくのことが迷惑なようだ。それなのに、君に出会えて喜んでいた自分が情けないよ。もちろん、出ていくさ」


ユリウスの叫び声は怒りで満ちていた。記憶を失って以来、恐怖や不安、悲しみといった行き場のない感情を、心の奥底にためてきたのだろう。それが、とうとう臨界点に達し、怒りに変わって噴出したかのようだ。ユリウスは、今度は呆然としたままのガリーナたちに向き合って、少し声を落とした。


「少しの間だったけど、世話になった。ガリーナ、親切にしてくれて、ありがとう。食器を壊して悪かったね。アレクセイに弁償してもらうべきだね。もちろん片付けるのも彼だ。彼のせいだから。なんのお礼もしないまま、こんな形で別れるのは心苦しいけれど、二人の幸福を祈っているよ。神のご加護を」


ユリウスは冷静に言おうと努めていたようだが、こわばった口調が、心の火山噴火が収まっていないことを示していた。


ユリウスは、最後のお別れの言葉を口にすると、くるりと向きを変え、すたすたとドアに向かって歩き出した。すぐに、ばたんというドアが乱暴に閉まる音が部屋中に響いた。


取り残された三人は、身動きもしないままユリウスが消えたドアを、ぽかんと見つめていたが、やがて、フョードルが小さなため息をついて頭を横に振った。そして、ガリーナの声が、部屋中のどんよりとした空気を突き破った。


「あんた、彼女のことが好きなのよね? 追わなくていいの? まだ間に合うわ」


「あのほうが、あいつらしい」


アレクセイは、自嘲するように笑いながらつぶやくと、頭を抱えて再び黙り込んだ。


「あいつらしい?」


ズボフスキー夫妻は顔を見合わせた。


「追わないの?」


ガリーナがアレクセイに声をかけたが、返事はなかった。フョードルがアレクセイの肩をぽんぽんと叩いた。


「自分の気持ちに向き合う必要があるんじゃないか」


「自分勝手だってことは、わかっているさ。あいつのこととなると感情のコントロールのできない自分に嫌気がするんだ」


「なら、彼女を追うべきだな」


「そうよ。追うべきだわ。彼女もあなたのことを愛しかけているように見えたわ」


いつも控え目なガリーナが、はっきりした口調で言った。


「おれはミハイルのようになりたくはない。だが、あいつといるとそうならない自信がなくなるんだ。おれは、兄貴の遺志をついで革命のために生きると決意したんだ。女のためじゃない」


アレクセイはこぶしを握りしめて、うつむいた。フョードルは、おやおやと小さくため息をついた。


しばらくしてから、アレクセイの目の前に雑巾とほうきが差し出された。顔を上げたアレクセイに対して、ガリーナがきっぱりと言った。


「あんたが片付けるのよ。あの人もそう言い残していたでしょう?」


ガリーナの態度に夫のフョードルは唖然としている。ユリウスだけでなく、ガリーナまでもが人柄が変わったかのようだ。


「それで片付けているつもりなの? 取りこぼしているわ。掃除したことないの?」


「うるせー!」


自己嫌悪に陥っていたアレクセイは、ガリーナに次々とたたみかけられて、黙っていられなくなったようだ。


「何ですって!?」


「まあまあ、ガリーナ、アレクセイ」


なだめに入ったフョードルにアレクセイが尋ねた。


「あんたにも、こんなふうに言うのか」


「それはないな」


「だって、フョードルは温厚で、机を叩いて怒ることなんてないわ。あたしにひどいことを言ったりすることもね。片付けも上手で、部屋を散らかすこともないもの」


その日から、これまで従順でおとなしかったガリーナが変わった。自らの意見を夫のフョードルやその友人のアレクセイに率直にぶつけてくるのだ。


「これまで、はっきりと自分の考えや気持ちを表すことができなかったわ。相手の顔色を伺ってばかりだったのよ」


とガリーナは分析をした。


「本当のことを言うとね、あんたのことが好きだったの。だから、良く思われたかったのね。でも、あの人がテーブルをひっくり返したのを見て、無理して自分をよく見せなくてもいいんだと気付いたの」


アレクセイはガリーナには何も言い返せず、ズボフスキーに向かって肩をすくめてみせた。


ズボフスキーによると、ガリーナには、アレクセイのユリウスに対する態度は相当な衝撃だったそうだ。


「アレクセイのこと、紳士的で、かっこいいと思っていた。親切にもしてもらったわ。それについては、今でも感謝している。でも、あのとき『百年の恋も一瞬で冷める』の意味がわかったような気がしたの。アナスタシアという人も本当の彼の姿を知っているのかしら」


「けんかをしながら仲を深めていくこともあるさ」


とフョードルは言ってみたが、ばっさりと言い返されてしまったそうだ。


「けんかをしても親密な関係が続けばいいわ」


ガリーナは、アレクセイがユリウスのあとを追おうとさえしなかったことと、そのあとの彼の言い分が気に入らなかったようだ。


「あんな言い訳をするなんて、彼女の状況や気持ちを考えたことなんてないのよ。悪く言いたくはないんだけれど、あんなに臆病者だとは思わなかったし、なんだか自分勝手な感じがしたわ」


アレクセイに恋心を抱いていたガリーナは、あり得ないと思いつつも、いつか彼が自分に振り向いてくれる可能性が全くないわけではないと思っていた。たとえ白馬の王子様になってくれなくても、自分のような弱者を少なくとも見捨てることはないと信じていた。


しかし、その期待は裏切られた。ガリーナが家族を殺され自らの尊厳を奪われたとき、つまり、つつましやかな人生の全てを奪われたとき、力を振り絞って彼に会いに行った。だが、彼はいなかった。憲兵の家宅捜査が入るという情報を事前に得て、すでに逃げていたのだ。


アレクセイが憲兵に捕まらなかったことは、喜ぶべきことだ。それにガリーナの不幸は彼のせいではない。むしろ彼は彼女に優しくしてくれた。だが、あのときのガリーナは、ただ誰かに会いたかった。


そして、アレクセイはやはり特権階級の身分で彼女の手の届かない存在であり、一方の自分がいかにみじめな存在なのかを思い知らされた。


ガリーナは、そのときの孤独感と絶望感を思い出していたのだ。ユリウスが出て行った日に、彼女は泣きながら、一人取り残されたあのときの気持ちを夫に打ち明けた。


「あの人にも誰かが必要だったのよ。なのに、アレクセイは」


ユリウスには、記憶を失うという恐怖と不安に向き合わされたときに、支えてくれた人がいたのだ。それが、どんなに重要なことかアレクセイには理解できなかったのだろう。



その後、がむしゃらに革命活動に打ち込むアレクセイの姿が見られるようになったそうだ。



(2022.02.10)

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