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ブラックローズ ー1907-

 

​​

「あなたには、絶対、この赤よ。あなたの持っている秘めた情熱にぴったりの生地だわ」

生地のサンプルを見ながら、いつものように落ち着いた色みの生地を選ぼうとしていたら、なじみの仕立屋の隣にいた背の低い派手な装いの男性が言った。深みのある赤いシルクタフタを私の顔の下にあててみせる。

「黒髪によく映えますわ、ユスーポフのお嬢様」

パリで修行し、今やペテルスブルクの社交界で引っ張りだこの仕立屋が同意する。

 

隣にいる男性は、ゼナイーダ叔母様に招聘されてペテルスブルクにやってきた、パリで大人気のデザイナーだ。

叔母様は、慈善事業の資金集めのために、華やかなパーティーを開催し、そこでパリの人気デザイナーの最新のドレスをオークション形式で売り込み、売上の一部を慈善事業にあてるというイベントを企画している。慈善事業に興味のない貴族や資産家でも、その妻や娘たちにとっては、そのパリの新進気鋭の芸術家ともいえる、アレクサンドル・レニエのドレスは憧れの的だった。彼らを巻き込んでお楽しみ企画にしてしまうのは叔母らしい。

もともとユスーポフ家は代々慈善事業に力を入れていて、ユスーポフ家で生まれ育った叔母様は嫁いでからも随分多くの寄附を重ねている。

叔母はのちに、ロシアの貴族が皆あなたのように寄附をしていたら革命は起こらなかっただろうに、とまで言われることになる。

 

それにしても、と私は鮮やかな色の生地を見つめる。こんな色のドレスは考えてもみなかった。しばらく躊躇していると、ユリウスが入ってきた。

「ヴェーラ、その赤、すごく似合うよ。ヴェーラの雰囲気にぴったり。さすがペテルスブルク一の人気の仕立屋さんだね」

彼女は、ゆったりしたシルクのブラウスに淡い色の鹿革のズボンといういで立ちだ。

とたんにびっくりするような歓声があがった。

「まあ、なんて素敵なのお。ロシアでミューズに出会えるなんて、感激よお」

フランス人デザイナーが飛び上がって叫んだのだ。そして、ユリウスの手を取り、ぶんぶんと振り回した。一方のユリウスは、菫色の瞳をぱちくりさせていた。私も事態が把握できずあっけにとられてしまった。

「ああ、あたしのミューズ。インスピレーションが次から次へと湧いてくるわ」

うっとりしながらまだユリウスの手を握り締めている。

一目でユリウスが女性だと見抜いたということね。

もっとも彼女は最近は男装をしていても、女性であることを隠しきれないほど女性らしくなっている。

「あたしの女神、あたしの妖精。無邪気で、残酷で、可憐で、妖艶で、単純で、複雑で、純真無垢で、官能的で…。そうだわ、閃いたわ。パーティーのときにあたしのドレスを着てみせて。完璧な美の世界ができるわ。パーティー会場が圧倒的な美の空間になることは間違いなしよ」

あ然とする私たちをよそに、ムッシュウ・レニエはアイデアを語りだした。

 

「僕がお役に立てるのなら」

とユリウスが無邪気に言う。

おにいさまが賛成なさるはずはないわ。

ムッシュウたちが屋敷を出ようとするときに、ちょうど帰宅したばかりの兄とはち合わせた。

私はまたしても驚いた。

「まあ、なんてセクシーなの!軍服がとてもお似合いだわ。ハンサムで、たくましくて、ス、テ、キ」

なんと、ムッシュウが兄に言い寄ったのだ。

美に関わる仕事をしている芸術家などに、その手の人は多いと聞いたことはあるが、まさか、おにいさまに…。

兄から氷の雷が落ちるのではないかと冷や冷やしたが、兄は顔色ひとつ変えない。後ろのロストフスキーも同様に表情を崩さない。

慣れているのかしら?

ユリウスは驚きはしたものの、面白がってことの成り行きを見守ろうとしていた。だが、兄の機嫌が悪くなりそうな雲行きをみて、ユリウスがムッシュウのアイデアを兄に聞かせたが、兄はにべもなく拒否した。

 

「このパーティーの企画はゼナイーダ叔母様がなさっているのよ。さぞがっかりなさるでしょうね」

母亡きあと、何かと世話をしてくれた叔母に私たちは頭が上がらない。

 

その後、兄はムッシュウと話し合い、ムッシュウの代理人を呼び何かと条件を付けたようだ。

これで晴れてムッシュウの望みは叶えられることになる。

 

おにいさまが社交の場に出るなんて珍しいこと。

パリで修行を積んだ仕立屋の手による深紅のドレスは素晴らしかった。シンプルなデザインでありながら、完璧なカットで美しいラインを描いている。私は、大粒のルビーにローズカットのダイヤモンドをあしらった真珠のネックレスを身に付け、兄にエスコートされてシャンデリアのきらめくパーティー会場に足を踏み入れた。そのとたんに、皆の視線が私たちに集まった。

遠くで私たちの噂をしているのが聞こえる。私のドレスを褒め、宝石にため息をついているようだ。そして兄の政治的立場を論じる声と、兄に憧れる女性の囁き。

 

 

パーティー会場は、叔母のセンスが光っていた。

至るところに色とりどりの花が飾られ、まるで花の洪水だわ。

「ゼナイーダ叔母様、華やかで素晴らしいパーティーですわね。まるで別世界に来たようですわ」

「まあ、ヴェーラ、来てくれて嬉しいわ。そして、レオニードも。珍しいこと。あら、何だか少し雰囲気が変わったわね」

叔母はまだ何か言いたげだったが、主催者としてあいさつ回りに忙しかった。

 

アレクサンドル・レニエの顧客はパリでもほんの一握りに限られていた。そのデザイナーの最新ドレスを手に入れるチャンスとあって、今年の社交界の最大級のイベントになりそうな勢いだ。

シャンパングラスを片手に談笑する人、イラスト入りのカタログを丹念に見直す人、ドレスを買う人を見物するためにやって来た人、社交界のビッグイベントをこの目で見ようとする人。

 

ひととおりのあいさつをすませると、私たちは後ろの方の『ルイ14世』というテーブルに案内され、シャンパンを振る舞われた。テーブルの中央には『ルイ14世』という黒バラをメインにした花が見事にアレンジされていた。周りを見回してみると、テーブルごとにメインの花が違う。イエロー系の『パピヨン』、グリーン系の『ジェイド』、ピンク系の『ヴィバルディ』などの薔薇のほかにも、『アラビアンミステリー』、『アントワネット』、『アトランディス』などのチューリップ、カサブランカ、カトレヤなど。何種類もある。テーブルには生けられた花と同じ名前が付けられていた。

 

楽団が音楽を奏で始めると、談笑していた客たちが着席し始めた。

 

やがて、色とりどりのドレスに身を包み濃い化粧をした女性たちが、一人二人と現れて、会場を8の字を描きながらテーブルからテーブルへ軽快に歩き回る。極上のさまざまな素材に、たいへん手間のかかったレースや刺繍、完璧に仕立てられたドレスに、あちらこちらからため息がもれた。

 

金髪を高く結い上げた、ほっそりした女性が出てきた。金髪がシャンデリアに反射して輝いている。サファイアのように光る双眸を、濃い隈取で囲み、濃い化粧で素顔を隠していた。

シルクシャンタンの白いジャケットに、腰のラインが綺麗にみえるスカート。挑発的なほど深く開いたV字型の胸元から陶器のようになめらかな胸の谷間がのぞき見える。襟には大小のクリスタルが散りばめられ、視線が襟と肌を行き来するように計算されている。

裾に近付くほど大小のクリスタルが輝いているスカートは、細身に見えるが、後ろで膝の少し上からたっぷりとドレープがとってあり動きに合わせて美しく波を打つ。

細身のラインと複雑なドレープ。単純でいて、複雑な彼女らしい。

無垢で豪奢で官能的。

 

芸術作品をまとった7人の女性たちが、休止を挟んでかわるがわる現れた。

 

金髪の女性は、今度は、ヒヤシンス色の肩が大胆に開いたドレスで登場した。胸から膝上まで身体にそったデザインが女性の曲線を美しく強調している。そのドレスの上にごく薄い同色のチュールが重ねられ、チュールには可愛らしい小花の見事な刺繍が散っている。膝から下は、何とも形容しがたい完璧な形で広がっている。強いて例えるなら、呼び鈴のような感じだろうか。歩くたびにふわりふわりとゆれる。

可憐でいて大人の色気を醸し出す。軽やかな妖精。

 

彼女のあとに、薄いパープル系の同じデザインのドレスをまとった女性が続いた。

 

金髪の女性は、最後に、黒いドレスで現れた。胸元から首までごく薄いチュールで覆われ、シンプルで身体のラインを美しく見せるブラックドレス。胸元はぎりぎりまで深くくくられている。

スカートの形は極めてシンプルでゆるやかな曲線を描いている。

彼女がくるっとまわって背中を見せる。

背中は肌の感触が伝わるぐらいのごく薄いチュールで覆われているだけ。

スカート部分は、前から見た姿と打って変わっていた。幾重にも重ねられたチュールがバレリーナのチュチュのよう。しかもクリスタルと刺繍が散りばめられたたいへん手の込んだものだ。

まるで黒い蝶。黒い妖精。

裾の複雑なドレープの一部が少し赤みを帯びて、その部分が赤みを僅かに残した黒バラをかたどっているように見える。

黒に染まり切るのに抗うかのように、とどまる赤。

正面の姿と、後ろの姿。二面性。現実的であり非現実的。

 

私たちのテーブルの近くまで来ると、彼女の視線と兄と視線がからみあった。彼女が少しはにかんで去ろうとすると、兄はテーブルに活けてある薔薇を差し出した。彼女の足どりが軽やかになり、会場から拍手が起こった。

他のテーブルでも、ドレスに似合う花を、ドレスを着て歩いて見せている女性たちに手渡し始め、会場が一層盛り上がる。

 

アレクサンドル・レニエは、色とりどりの生地を自由自在に操る魔術師だ。彼の手にかかるとドレスは動く芸術品になった。

拍手に次ぐ拍手。誰もがアレクサンドル・レニエの創造する世界を称賛した。

彼のような才能は裕福な顧客やパトロンがいてこそ発揮できる。

 

実際に人にドレスを着せて動いて見せるアイデアも斬新だった。のちに従弟のフェリクスが、パリでモデルの仕事を提案し、亡命ロシア女性が働けるように奔走することになる。

 

ひと通りドレスのお披露目が終わり、別室にドレスが展示された。

金髪の女性が着ていたドレスは、それぞれ『カサブランカ』、『ヒヤシンス』、『黒バラ』と名付けられていた。

 

合計21着がオークションにかけられ、どのドレスも想像以上の高値で落札されて大盛況に終わった。ゼナイーダ叔母も一着手に入れたようだ。やがてどのドレスを誰が落札したのか社交界の話題になった。

けれども、目ざとく噂好きな社交界の面々が手を尽くしても分からずじまいのドレスがあった。

『黒バラ』。おそらく最高額をつけたであろう。

 

誰が『黒バラ』を手に入れたかが明らかになるのに、そう時間はかからなかった。

それは、兄の誕生日のことだった。ここ数年、誕生日にも屋敷にいなかった兄が珍しく帰宅した。兄には自分の誕生日よりも任務を優先させる。義姉は相変わらず不在だ。

 

家族との晩餐の席では正装をするのが我が家の習わしだ。家族こそが最も大切にすべき人達であるからこそ、お互いに敬意を表す意味もある。とはいえ、最近では兄弟たちだけの気楽な席になりつつあったが、お祝いの席では別だ。

 

普段は軍服で正装する兄も、今日は首元に白いタイを小さく結び、シルクの白い胴着(ウエストコート)にドスキンの黒い燕尾服、二本の側章の入ったズボンといういで立ちで、黒い妖精の手を引いてきた。

 

首元には初めてみるダイヤモンドと真珠のネックレスが輝いている。ゆるく結い上げられた金髪はやや乱れ、頬はわずかに桃色に上気し、肌はうっすらと汗ばんでいるように見える。『黒バラ』も心なしか着崩れていて、直前に二人の間に起こったことが容易に想像できた。

おにいさまったら。

私は心の中で、くすりと笑った。

そして兄は彼女を初めて自分の右側に座らせた。我が家では主の右側は女主人の位置だ。

「おにいさま、お誕生日おめでとうございます」

「にいさま、おめでとう!」

元気な声が続く。

青い目をした黒い妖精が兄の頬に軽くキスをする。

「おめでとう、レオニード」

リュドミールは彼女の壮絶なまでに美しい姿に目が釘付けで、食事中はその美しさを褒め称えてばかりだ。静かな兄とは違う才能が弟にはあるらしい。

「恥ずかしいから、そんなに見ないで」

「あら、そんなに美しい姿を見せないなんてもったいないわ。舞踏会、そうだわ、仮面舞踏会にでもお出かけになってはいかがかしら」

ちらっと兄の方を見る。無言のまま。何を考えているのか表情からは読み取れない。

「無理だよ、ヴェーラ。踊れないんだ」

「以前、ヴェーラと踊っていただろう?」

あら、ご覧になっていたのね。

「あのときは、僕が男役だったから…、男性のステップしか知らないんだ」

隣で笑いをこらえている兄を、彼女が口を少し尖らせてきつい目で見つめる。

そんな彼女の仕草が可愛らしい。

「僕が教えてあげるよ」

リュドミールが目を輝かせた。

 

食後、サロンでユリウスが短いピアノ曲を何曲か演奏する間、年の離れた兄弟が同じ女性を一心に見つめる様子が微笑ましく、再び内心くすりと笑ってしまった。

ああ、兄弟だわ。

二人の熱い視線にピアノに集中できなくなった彼女に助け船を出した。

「踊りませんこと、おにいさま」

円盤式のレコードをアメリカ製のグラモフォンにセットして、私は兄と軽快な音楽に合わせて踊った。

早速、リュドミールは彼女と踊ろうとしたが、身長のバランスからすると不自然なことをリュドミールも悟ったらしく、結局、二人で腕を組んでスキップしたり、ユリウスがリュドミールをくるくる回転するように促したりしていた。

この前のオークションのために、ユリウスは、ドレスを着て歩いたりスキップしたり回転したりする練習を相当させられていた。そのためか、のびのびとしかも優雅に身体を動かしている。

 

何曲か終わると、兄の手が彼女に差し出された。

二人は向かい合いゆっくりと動き始めた。

ゆったりとした動きに合わせて黒バラのドレープが波を打ち、裾がシャラシャラと音をたてる。

彼女は潤んだ瞳で兄を見つめ、兄もまた深い瞳で彼女を見つめ返した。

ワルツを踊る時のように下半身をぴったりと合わせ、彼女の尖った胸の先が兄の厚い胸板に触れるか触れないかの距離を保っている。

二人の唇が、今にもくっつきそうになったり、少し離れたりを繰り返している。

兄の吐息が彼女の首筋にかかると、彼女は目を閉じて声なき声で呻く。

妖艶な黒い妖精。

刺激的で官能的な二人の世界。

 

先ほどまで、弟と一緒にくるくると回って跳ねて笑っていた軽やかな妖精はどこにいったのかしら。

子どものリュドミールには刺激が強すぎるわ。

そう思ったとき、彼女が兄の胸の中に崩れた。

「あらあら、慣れないドレスが窮屈だったようね。早く楽にしてあげなくては」

含みのある言葉に、兄はにやりとした。そして、私たちに礼を言い、おやすみのあいさつをすると、彼女を抱き上げてサロンを出て行った。

最高のプレゼントね。おめでとう、おにいさま。

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「黒バラ」を着るユリウス

Illustrated by Nonohana

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レオニードへの誕生日プレゼント

Illustrated by Nonohana

 

野の花さまから、もったいないほど素敵なイラストを2点も頂戴しました!感激です(((o(*゚▽゚*)o)))

野の花さま、ありがとうございました!!

​野の花さまのイラストを集めました↓

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