ユリウスの肖像
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「ユリア様、いっそう美しくなられましたね。何かを吹っ切られたように見えます」
「アンナのほうこそ美しいわ。体調はどう?」
ユリウスは、侯爵邸の厨房に隣接した使用人用の食堂で、かわるがわる休憩にやって来る使用人たちと談話していた。ここは、舘に移る前からユリウスも頻繁に顔を出した場所だ。
当時も侯爵家の客でも使用人でもなく、中途半端な立場だったが、いまも立場は不明のままだ。ユリウスに特段の仕事があるわけではない。だが、目立たないように地味な色のワンピースの上にエプロンを着けて、皆をねぎらい、ときにはお茶をいれたりもする。ユリウスは、ここの皆が好きだ。
「おかあさま!」
キーラが泣きながら走って来た。
「小さなキーラ、会いたかった!」
待ちに待ったキーラとの再会だ。ユリウスも涙ぐんでキーラを抱きしめて、キスをして、また抱きしめた。我が子に会うのが、数年ぶりのように感じられる。
キーラはユリウスにしがみついて、しばらく声をあげて泣きじゃくった。そんな母娘の姿を見て、アンナや料理人たちもしんみりとしている。
キーラは涙が落ち着くと、枯れた声で尋ねた。
「おとうさまとけんかしたの?」
「けんか? どうして、そう思うの?」
キーラは、道中危ないから母親は邸に来られない、と父親から説明されたそうだ。しかし、キーラは幼いながらも別のことを感じ取ったようだ。
「キーラも、ミハイルとけんかになると、ミハイルとあいたくない、そうしたら、ミハイルが、ごめんねって。だから、キーラもごめんねって」
しかし、子どもたちのけんかと違って、ユリウスとレオニードの間は、「ごめんね」では解決しなかった。だが、キーラには両親の不和を見せないほうがいい。これはユリウス自身の経験からも思うことだ。
「お父さまとお母さまは、けんかをしているんじゃないわ。かくれんぼをしていて、お母さまが隠れるの。もちろん、キーラは公平だから、お母さまと会ったことを、お父さまに話さないわよね?」
かくれんぼはオレグのアイデアで、執事以下皆が協力してくれている。
「かくれんぼ? どうして、おしえてくれなかったの。キーラもいれて!」
「キーラがしゃべらなかったらね」
「おかあさまは、いつもどこにいるの?」
「それは秘密よ。でも、昼間はここにいるから、お父さまがいないときに、いらっしゃい」
ユリウスはそう言いながら、キーラの頬をなでた。
キーラの目が、テーブルごしに微笑んでいるアンナの目とあった。
「アンナのおなかのあかちゃん、げんき?」
「キーラお嬢様や皆が気づかってくれますから、元気ですよ。ありがとう」
キーラはユリウスのほうに向き直った。
「ミハイルに、また、おとうとか、いもうとがうまれるって。キーラも、おとうとかいもうとがほしい。だから、神さまにおねがいしているの」
ユリウスは答えにつまった。キーラは前々から弟妹を欲しがっていたが、こんな状況では無理だろう。
「そればかりは神様が決めることだから、分からないわ。さあ、もう戻ったほうがいい時間ね。もう一度、お約束して。お母さまのことは内緒よ」

*
二日前のことだ。ユリウスが、どうしたらキーラと会えるかを考えあぐねていたところだった。オレグが再び館にやって来て、ためらいがちに話を切り出した。
「キーラお嬢様と会える方法を考えたんですが、ほかになくて」
「キーラと会えるのなら何だってします。お願い、どうすればいいの?」
オレグの考えは、ユリウスが侯爵邸の使用人部屋に入ることだった。
「大丈夫です。うまくいきますよ。そんな気がするんです」
広大な邸宅では、裏方が占める場所も多いが、当主とその家族は、使用人に用があれば呼べばいいのだから、そこに足を踏み入れることはない。したがって、ユリウスが隠れていても見つかるはずがない、とオレグは考えたのだ。
問題は内部の人間である。そこで、オレグは、執事や家政婦、警備たちを説得して回ったのだった。
だが、万一ユリウスが使用人部屋に隠れていることがレオニードに知られたら、使用人の何人かが路頭に迷うことになるかもしれない。
「そのときは、私が全責任を取って路頭に迷いますんで」
オレグはそう言って笑った。オレグは、動物たちといっしょに暮らせさえすれば、幸せなのだそうだ。
「私は、これまでいろんな人たちの世話になりましたが、動物たちにもずいぶん助けられたんです。意外に思うかもしれませんが、動物たちは義理がたいんですよ」
「でも、どうして、わたしのためにそこまで?」
「ユリア様のためでもありますが、旦那様のためでもあり、当主になるかもしれないキーラお嬢様のためでもあります。お嬢様には母親が必要ですし、一家の幸福と繁栄のためですよ」
今回のことは、侯爵家、とりわけキーラの幸福のためだとボリスも言う。オレグやボリスたちマカロフ家は、何代にもわたって侯爵家に仕えてきた一族だ。忠実な一家の人々は、侯爵家の幸福と繁栄は、マカロフ家にも幸福と繁栄をもたらすと考えている。
それに、皆が口をそろえて言うには、不思議なことに、オレグの直感はいつも正しいのだそうだ。数年前、エフレムを雇ったときにも、普段は人事に口を出さないオレグが、異を唱えたらしい。ほかにも、後になってオレグが正しかったと分かったことが、何度もあったという。だから、オレグが大丈夫だと言えば、大丈夫で、誰もがオレグに信頼を寄せている。
しかし、皆がオレグに協力的なのは、それだけではないだろう。オレグは、マカロフ家の家長であるだけでなく、馬の扱いがうまく、その道では尊敬を集めてはいるが、侯爵家での立場は執事の下だ。
オレグは、言葉を話さない動物たちが、そっと寄り添って心を慰めるように、手柄も誇らず、見返りも求めず、いつも静かにさりげなく振る舞っている。
思い返せば、ユリウスがまだ侯爵邸に滞在していたときに、オレグが休憩室に案内してくれなかったら、ユリウスはこの大邸宅でもっと孤独だっただろう。料理人たちを中心に皆が親切にしてくれたのも、オレグの一言があったからだ。
ユリウスのほかにも、様々な人びとがオレグと動物たちに助けられたのだろう。だから、皆オレグに感謝し、敬意をはらい、オレグを中心として侯爵家が円滑に運営されているのだと思う。
オレグは、侯爵邸にいる誰もが、動物も含めて、かけがえのない存在で、大切な彼らの心に寄り添うことができれば嬉しいのだ、と言っていた。
そんなオレグの言葉に、ユリウスの胸に温かいものがこみあげてきた。多くを語らないが、オレグも様々なことを経験したことだろう。
前向きなカティアにも、迷いや苦しみがあったに違いない。ボリスやアンナ、ペトロワ、料理人たちも、それぞれの思いがあるだろう。侯爵家で働く人々のほかにも、バーニャの管理人、シベリア商人、モスクワで世話になった多くの人々も、人生のなかで様々ことがあっただろう。そして、直接関わることのない無数の人びとも。
ユリウスは彼らの心に思いをはせた。そして、その誰もが愛を求めて生き、それぞれに悲しみや喜びがあることに感じ入った。
ユリウスも彼らと同じく愛を求め、苦しみや喜びのなかを、ときには間違えながら精いっぱい生きてきた。必死に生きているのは、シロコフのような者も含めて皆同じなのかもしれない。
ユリウスがそう思ったときに、これまで向きあいたくなかった過去の自分が、初めて愛おしく感じられた。犯した罪は消えないにしても、大いなる愛のなかで、ユリウスも一生懸命生きてきたのだ。