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「レオニード、会いたかった」

 

 そわそわしながら居間で待っていたユリウスは、レオニードに抱きついた。

 

「キーラは元気かしら。早く会いたい」

「キーラは元気だが、おまえの心配をずっとしている」

 レオニードは、キーラが心配しているという部分を強調した。そして、ユリウスを座らせてから、自らも座って葉巻に火をつけた。

「何があったのか聞かせてくれ」

 ユリウスは、レオニードに真っ先に知らせたいことから始めた。

「ケレンスキーという人たちが、あなたを利用しようと企んでいるのを聞いたの。それが心配で」

「そのことなら、本人が直々に訪ねてきて聞いている。心配ない。それよりも、何があったのだ?」

 レオニードが低い声で促した。

 ユリウスは、心配ないと聞いてほっとしたが、レオニードのどこか険しい態度にまごついた。それでも、眠っている間に馬車がシロコフたちに乗っ取られたことから、死んだとされたアレクセイ・ミハイロフに再会したこと、ボリシェビキたちにスパイの嫌疑をかけられ、あのアパートに閉じ込められていたこと、レオニードに見つけてもらうために指輪を渡したことまで正直に話した。

 ユリウスがひととおり話し終えたときに、レオニードは葉巻の煙を吐いて静かに言った。

「外出できなかったと言ったが、先ほどの様子では逃げられたのではないか。おまえは嘘をつく人間ではないと思っていたが」

「同じ部屋にいた女性が、鍵をかけて見張っていたのよ」

 憲兵隊がレオニードたちだと気づいたユリウスは、その女性に隠れるように言われたときに、外に出るチャンスだと思った。だから、その女性だけを床下に隠したのだと説明した。

「それで、やっと外に出られたの」

「床下に隠れていた女は発見した」

 ユリウスの顔から血の気が引いた。

「逮捕したの? 彼女には見張られていたけれども、親切にもしてもらったの。わたしが襲われそうになったときに、アレクセイといっしょに助けてくれたのよ。それに彼女は妊娠しているの。だから、見逃してあげて、お願い」

「おまえを監視したという女をか。彼女は反逆者の仲間だ。おまえも仲間なのか」

「わたしは仲間なんかじゃないわ。彼らのやろうとしていることには賛成できない。それに、あなたを裏切ったりはしないわ」

 ユリウスがそう言うと、レオニードはポケットから紙を取り出した。

「人というものは、鍋を見ると、ふたを開けてみたくなるものらしい」

 ユリウスは思わず立ち上がった。それは、ユリウスが書きつけて、鍋のなかに隠したアレクセイあてのメッセージだった。誤解を招きかねない内容だ。

 レオニードは、こわばった顔をしたユリウスを椅子に座らせ、低い声でメモを読みあげた。

「おまえは反逆者のアパートで彼らとともに一か月以上過ごした。そのうえで、ここに戻ったのは私を探るためか」

 レオニードはユリウスをスパイだと考えているようだ。

「違うわ! わたしは、あなたを愛している。だから、あなたのそばに戻りたかった。決してスパイなんかじゃない。そのメモは、わたしが急に姿を消したら心配すると思って、とっさに書いたの。それ以外の意図はないわ。本当よ」

「反逆者が心配する?」

 レオニードの表情はかたいままだ。ユリウスは、息を吸って言った。

「彼に再会できて嬉しかったのは事実です。死んだと思っていた彼が生きていて、つらいシベリアの監獄で、何年間もわたしのことを思っていたと告白されて、それで胸が熱くなって」

 途中からユリウスは涙声になったが、レオニードの態度は変わらなかった。

「だから、愛する男のために、ひと働きするというわけか」

「違う! 彼のことを愛していないとは言わない。でも、一番愛していているのは、あなたよ、レオニード。そして、キーラ。あなたを裏切るようなことは絶対にしない」

 ユリウスは声を荒らげて否定し、数年前に死にかけたときのことを話した。

「ドイツでのことは前に話したでしょう? わたしは、追いつめられ、アレクセイへの愛だけを支えにして生きてきたのに、再会したときに、彼はわたしを突き放したのよ。だから、最後の望みを失って、発作的に窓から飛びおりた。その後のことは、あなたのほうが知っているはずよ。わたしは雪のなかに埋もれていたのでしょう? そこから救ってくれたのは、あなたです、レオニード」

 ユリウスは、キーラをさずかった喜びも、生きていて幸せだと思えるのも、レオニードがいたからこそで、レオニードを愛していることを繰り返し訴えた。さらに、アレクセイに対する気持ちの整理はついている、と主張した。

「彼がいなければ、わたしがロシアに来ることはなかったし、あなたに出会うこともなかった。そして、キーラが生まれることもなかった。だから、今となっては、彼がわたしをロシアに連れて来て、あなたに出会わせ、幸福に導いてくれたと感謝しています」

「当時、ミハイロフと再会していたとは初耳だ。そのときに、私を探るように言われたのではないか」

「わたしは捨てられたのよ」

 ユリウスは、クラウスに突き放されたことで、人生が変わったことを伝えたかった。けれども、それまでクラウスとの再会について黙っていたために、レオニードは疑念を深めてしまったようだ。レオニードは、ユリウスがクリコフスカヤを人質にして逃亡しときのことを持ち出した。

「クリコフスカヤとの馬車のなかでの会話は、ロストフスキーが耳にしている。以来、彼女と連絡を取りあっていたのでないか」

 ユリウスは衝撃のあまり言葉を失いかけたが、震えながら声を振り絞った。

「なんて人なの! あなたは、わたしがスパイかもしれないと思っていながら、わたしと関係を持ったのね。はなからわたしのことなんて信じていなかったなんて!」

 ユリウスは、わあ、と泣き出した。

「わたしはあなたを愛していたのに、あなたこそわたしを利用したのね。それとも、もて遊んだの?」

 ユリウスは泣きながら立ち上がって、レオニードを叩こうとしたが、たやすく取り押さえられてしまった。

「おまえのことを信じたいと思った。だが、これまでのことを勘考すると、それは難しい。私の何を探り、何を彼らに話したのか確認したい。帝国銀行のこともだ」

「ひどいわ。あなたのことは、名前すら出していません。ユリア・スミルノワの名も。皇帝の隠し財産のことも。あなたに迷惑をかけそうなことは一切話していない。それに、あなたは慎重で、政治的なことは、わたしには話さなかったはずだわ」

「いかにも。だが、蟻(あり)の一穴のような些細なことが、すべてを壊すこともある」

 ユリウスは、目の前の男が自分を疑っていても、まだ愛してくれていると信じたかった。

「あなたこそ、どうして彼の助命嘆願をしたの?」

 少しの沈黙の後、レオニードは、にべもなく答えた。

「おまえに会わせてやる約束をしたからな」

「あなたが、わたしのためにそこまでしてくれて感激したの。あなたは、わたしを愛しているのでしょう?」

「ああ。だが、今は信じられない」

 レオニードは火の消えた葉巻を置いて、立ち上がった。

「また近日中に来る」

「待って。キーラに会わせて。一刻も早く会いたい」

「ならば、なぜキーラのために早く帰って来なかったのだ? あのアパートで、監視役があの女一人なら、機会はあっただろう」

 ユリウスは、すぐに言い返せなかった。アレクセイと会いたいという気持ちがあったことは、否定できなかったからだ。

「キーラを反逆者の仲間に渡すつもりはない。当分の間、この館で待機するように」

レオニードは、そう言って、有無を言わさぬ態度で舘を去った。

 ユリウスは椅子の上に崩れ落ちた。

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