野の花ギャラリー
暁の夢(後編)
ユリウスは、凝った装飾の施された鉄製の門扉の前に立った。ユリウスの背よりも高い門の奥に、いかめしい建物がどっしりとかまえている。これが、家系の古さではレーゲンスブルクで一、二をあらそうといわれる、アーレンスマイヤ家だ。
ユリウスたちが敷居をまたぐと、少し離れたところから二人の女性がユリウスたちの様子をうかがっているのが見えた。異母姉が二人いることは聞いている。
「まったく、レーゲンスブルク中のいい笑いものだわ。昔の愛人が正妻の座につくことになるなんて」
「いまごろになって親子して名乗りをあげてでるなんて、話がうまくでき過ぎているわ」
ユリウスは年増の姉たちのいやみな言葉も意に介さず、不愛想に彼女たちの前をとおり過ぎ、執事に案内してもらった自室に向かった。
「まあ、なんて態度かしら?」
「育ちが卑しいのも困ったものね」
ユリウスは案内された部屋にいったん入ったが、すぐにドアから顔を出した。ちょうどそのときに荷物を運んでいた小間使いの腕を引っ張って部屋に引き入れた。突然のことに小間使いの女の子は驚いて悲鳴をあげた。
「きみ、ちょっと頼みがあるんだが、協力してくれないか」
ユリウスはそう言って、シャツを脱ぎ始めた。新しく来たご子息が、いきなり目の前で服を脱ぐものだから、部屋に引き込まれた小間使いは、度肝を抜かれて再び悲鳴をあげた。手で目を覆ったその女の子を見て、ユリウスは微笑んで言った。
「着替えを手伝ってほしい」
指の隙間からユリウスを見た小間使いは、今度は口をパクパクさせている。
「お、女の子・・・」
「ドレスを着たいんだけど、この小さなループボタンが手におえないんだ。ボタンをかけてくれないか?」
ドレスの脇下からウエストにかけて、小さなくるみボタンがびっしりと並んでいる。ボタンループも小さく、ユリウス一人ではとてもかけられない。
「わかりました。お手伝いします。上流階級の女性のドレスは使用人に着せてもらうようになっていますから、お一人ではむりですよ」
「一人で着られない?そんな手間がかかるものだったのか」
ため息をついて言うユリウスに、今度は小間使いが微笑んだ。
ユリウスの部屋のドアをたたく音がした。小間使いの悲鳴を聞きつけた異母姉が心配しているようだ。
「ゲルトルート、大丈夫なの?ユリウス、いったいゲルトルートに何をしたの?」
「何も問題ありません、マリア・バルバラ様。ユリウス様のお手伝いを突然頼まれたので驚いただけです」
ゲルトルートの明快な返答が聞こえたので、姉は引き下がったようだ。
「きれいな金髪ですね。リボンもつけましょう」
ゲルトルートはそう言うと、手早く髪をまとめていった。ユリウスの身支度が整うと、ゲルトルートは思わず嘆息をもらした。
「とてもお似合いです」
「ありがとう、きみ、ゲルトルートというのかい?一人では着られないので助かったよ。ああ、お願いだから、まだ事情は聞かないで」
フランクフルトを発つときにヤーンに髪が長過ぎると指摘されたが、無視したのはこのためだ。
父親に会う準備のできたユリウスは、いたずらっぽく微笑んだ。
だが、問題はこれからだ。弁護士と執事に案内されて、母親ともに父親の部屋の前まで来たところで、ユリウスは大きく息を吸った。
まず、母親が父親と対面した。15年ぶりだ。レナーテの目に涙がたまっている。そしてユリウスを手招きし、父親と引き合わせた。
女装をしたユリウスは、緊張でひきつりながらも笑顔をつくり、あいさつをした。
「ユリウスです。はじめまして」
アルフレート・フォン・アーレンスマイヤは、目の前に現れた少女を見て言葉を失った。少女は、少女の祖母、つまり自分の母親に生き写しなのだ。このたび妻に迎えたレナーテも母親に似てはいるが、ユリウスはそれ以上だ。
手続きのために少年ユリウスと会った弁護士も、若き日のアーレンスマイヤ氏にうり二つだと報告した。弁護士は少年が依頼人の血筋だと一目で確信したそうだ。そして、その少年を継嗣にすべく再婚の手続きを進めてきた。
しかし、良心の呵責に耐えかねたレナーテは、ユリウスが女の子であることを、謝罪とともに手紙で伝えてきた。それが受け入れられないのならば、別の土地で母娘で慎ましく暮らすつもりだとも書いてきた。アーレンスマイヤ氏は、騙されたことに立腹したが、レナーテの気持ちや事情を手紙で知り、許すことにしたのだ。
アーレンスマイヤ氏は、娘に会えたことを喜び、レナーテに感謝の意を伝えた。
いっぽうのユリウスは、目の前にいる男のせいで、母が背負った苦労と、男の子として生きなければならなかった15年間を思っていた。だが、老いてベッドのうえに縛り付けられた姿を見ると、憐れにさえ思われる。
続いて、二人の異母姉が部屋に入ってきた。姉たちは、女の子の姿を認めると二人とも顔色を変えた。この門をくぐってきたのは、かつての父親の愛人レナーテとその息子だったはずだ。紹介される前に、年上のほうが口火を切った。
「いったいこれはどういうことですの、レナーテさん。きちんと説明してくださらないこと?わたくしたちは、弟と聞いていましたのよ。我が家に男子がいないのをいいことに、息子をでっちあげて、お父様の気を引いたのね」
美人で厚化粧の年下のほうが続けた。
「それでうまく妻の座を得たら、安泰ですものね。でも、本当にお父さまの子かしら?」
「これは詐欺だわ。弁護士さん、この親子を警察に突き出してください。こんなこと許されることではありませんわ」
ヒステリックになってきた年上の娘に、弁護士は落ち着いて対応した。
「マリア・バルバラさま、被害にあってはおりませんので、アーレンスマイヤ氏としては告訴するつもりはありません」
下の姉が反論した。
「でも、性別を偽ったことは問題なのではなくて?役所への届出はどうしていたのかしら」
「その点については、若干問題がありましたが、既に解決のめどが立っております。ついでながら、実子かどうかについては、アーレンスマイヤ氏の若き日の写真を見れば一目瞭然です」
姉たちは引き下がらず、あれこれと言い続けた。
「つまり、わたくしたちは、嘘つきといっしょに暮らすことなんてできませんわ!」
「二人とも、黙りなさい!」
かすれていても威厳のある声が響いた。とうとう父親が口を開き、ユリウスが女の子だと事前に知っており、すべて承知のうえであることを二人の娘に告げた。
二人の姉はしぶしぶ黙ったが、ヒステリックなほうは露骨にいやな顔をしている。厚化粧のほうは憮然としていたが、しばらくしたら、ユリウスたちのほうを見て、挑みかかるようににやりとした。
厚化粧のほうには要注意だ。だが、負けるものか。そう思ったユリウスは、わざとらしく微笑み返した。

*
翌日、ユリウスが自分の気持ちを話そうと父親の部屋に向かっているときに、誰かがユリウスのあとをつけていた。御者だった。すごくいやな感じがした。なぜ自分のうしろを足音も立てずに御者が歩いているのか。そもそも御者がいるべき場所は、屋内では階下の使用人部屋が原則のはずだ。
ユリウスは気付かないふりをして、父親の部屋に入りドアを閉め、そして間髪を入れず静かにドアを開けた。
「ヤーコプ、お父さまに何かご用なのですか、それとも、わたしに?」
やはりドアの前に御者がいた。彼は予想だにしなかった出来事に狼狽し、あわてて立ち去っていった。
御者を追い払ったユリウスは、ぱたんとドアを閉めた。あいにく父親は眠っていたが、ユリウスはかまわず父親のかたわらに座って、独り言を言い始めた。
母さまが世間の冷たい仕打ちに耐えて、ユリウスを後継にするために男として育てたこと。そうさせたのは、あなたが母さまをいらなくなった人形のように棄てたからだと。長い年月、心のなかに貯めてきたことを、初めて口から出した。
「でも、わたしは、父さまを恨むのはやめて、ありのままの自分で生きていきたい」
そして、ユリウスは母親の心配をした。弁護士が告訴しないと言っていたが不安だ。そのうえ、ヤーンという男も何かを企んでいるかもしれない。自分はどうなってもいいが、母親が罪に問われないようにしたい。
「そのことなら問題ない」
眠っていると思った父親の小さな声が聞こえた。心配のタネのヤーンも姿を消したそうだ。
「おまえは、自分はどうなってもいいと言ったが、牢獄にでも行く覚悟だったのか?」
ユリウスがうなずくと、父親は莞爾とした。
「ユリウス、私を恨んでいたと言ったが、ここから出て行くなどとは言わないでくれ。せっかく会えた可愛い娘には、そばにいて欲しい」
ユリウスは、自分の胸のうちを見抜かれていたようでハッとした。
「本音を言うと、母と二人で暮したいし、でもピアノは習いたいので、そのための生活援助だけしてほしい、とお願いするつもりだったんです。でも、それも一方的な考えですね」
「そう考えても仕方のないことだ。人の心とはひどく見えにくいものだからな。追い求めても、わからないこともあるが、少なくとも見ようと思わなければ姿を現さないものだ」
*
「レナーテさん、わが家の犬は野良犬とは違いますのよ。しっぽを振ってあなたから餌をもらったりしません」
「レナーテさん、お父さまのお薬には間違いありませんわね。わが家には毒薬などおいていませんけれども」
姉、特に年増のほうは、ことあるごとに母親にいやみをぶつけてくる。そのたびにユリウスも反撃に出たが、いいかげんにうんざりしたので、母親を誘って散歩に出た。どれくらい歩いただろうか。ピアノやバイオリンの奏でる音が樹々の間を伝わってきた。音楽学校まで来たのだ。
ユリウスは幼いころ、ピアノの音が聞こえると、たとえ上手でなくても聞き入ってしまい、その場所から動かなかったものだ。そんなユリウスをみて、母親は縫い物の仕事を増やし、中古ピアノを手に入れた。そして、厳しい生活費をやりくりして、ユリウスのピアノのレッスン代にあててきたのだ。
ユリウスが鼻歌を歌いながら上機嫌で音のなかを歩いていると、向かう先に朽ちた塔が見えた。半分以上崩れ落ちている。どこかで見たことがある。気にはなったが、頭上から石が落ちてきそうなので近寄らない方がいい。そう思って引き返そうとしたときだった。
「クリームヒルト!?」
突如、声がしたと同時に、ユリウスは知らない男に抱き付かれてしまった。
「何するんだ、この痴漢野郎!」
ついユリウスは反射的に男のすねをけりあげ、脇腹に肘鉄をくらわせ、相手がひるんだすきに、ひらりと後ろにさがった。
男は、うっ、とうめいてよろめいた。うら若き女性からの思わぬ反撃に、顔には驚愕の表情が浮かんでいる。
男のあとを追ってきた学生らしき二人が、目の前で起こった出来事に最初はあっけにとられていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。すねをけられた男は、ぼそりとつぶやいた。
「あの人が、こんな乱暴者であ」
と言いかけたところで、少女の目付きがさらに険しくなったので、男は言い直した。
「あ、いや、勇ましいという意味だ。申し訳ない。若いお嬢さんに、とんでもないことをしてしまった。許されることではないが、どうか謝罪を受け入れてほしい。あまりにも、ある女性に似ていたので、つい」
男は謝罪し、ここの音楽学校のピアノ教師だと説明した。ユリウスはむすっとしたままだ。
ユリウスに似た人というのは、母親か祖母だ。紹介もなしに見知らぬ男性と話すのは、ユリウスの階級の娘のすることではない、と言われていたが、すでに良家の子女とは思えない行動を取っている。母か祖母のことを言おうとした矢先に、母親の声が聞えた。
「ユリア、そちらに行ってはだめだと言ったでしょう?」
ユリウスは不機嫌に、しかも恩着せがましく言った。
「母が呼んでいますので、失礼します。今日のことはなかったことにしてさしあげます」
少女の母親という女性の顔を見て、ピアノ教師は今度こそ雷に打たれたかのようになった。こちらに向かっていたレナーテも、驚愕の表情を浮かべて立ちすくんでいる。
ユリウスは、目の前で起こっていることを理解しようと二人を交互に見た。ピアノ教師の連れの学生たちも、同様に交互に二人を見ていたが、やがて短髪のほうの学生が視線をユリウスに移した。見られていることに気付いたユリウスが彼をにらみ返すと、大胆にも彼は片目を瞑ってみせた。女の子になるということは、こういうことなのか、とあきれたユリウスは、知らんぷりをすることにした。
「お母さま、お知り合いなの?」
「ええ、昔のね、懐かしくって涙が出てしまったわ」
涙ぐんだレナーテは、深呼吸をしてから、ピアノ教師に向かって名乗り、レーゲンスブルクに来たばかりだと告げた。
「まさか、アーレンスマイヤ氏の再婚相手というのは」
ピアノ教師は信じられないというように震える声で言った。
「あ、あなたが、あなたが、アーレンスマイヤ夫人?!」
レナーテは、涙をぬぐってうなずいた。そして、遠くを見るように、かつて窓のあった塔を見上げた。
「あれから、もう15年も経つんですね。その間に、あの窓も崩れてしまいました」
レナーテは、懐かしく美しい思い出が過去のことであることを、ほのめかした。いまは、アーレンスマイヤ夫人として、ユリウスの母として、生きる強い決意をしている。ユリウスの父親を一方的に恨んだときもあったが、今の夫とやりとりするうちに、夫の気持ちを知り、自分の至らない点もあったと反省することもあったのだ。夫の孤独さに触れてからというもの、彼を愛そうと決意した。
ピアノ教師は絶句したままレナーテを見つめていたが、しばらくすると少し落ち着きを取り戻したようだ。レナーテに再会できた喜びを伝え、塔の話をした。
「どういうわけか塔が急に崩れ始めたんですよ」
一か月ほど前から一部の石が崩落したので、近日中に取り壊し再建する予定だ、と残念そうに説明した。
「すばらしい青春時代でした」
最後にピアノ教師がそう言うと、二人はうなずきあって別方向に歩き出した。
15年前。おそらくユリウスが生まれる前に、二人は出会って別れた。そんなことを思って歩いているときに、 背中の方で、ピアノ教師が学生たちに口止めしているのが聞こえた。
「もちろん、わかっていますよ。変な噂を流されたら、あのお嬢さんの迷惑になりますからね」
「おい、ダーヴィト、どこへ行くんだ。打ち合わせがあるだろう?」
ピアノ教師の声が聞こえた。
「すぐに戻りますよ」
短髪の方の学生がユリウスたちを追いかけてきた。学生はダーヴィト・ラッセンと名乗り、礼儀正しく母親のほうに娘と話す許可を求めてきた。
ユリウスは、もったいぶったような上流階級の子女の口調で言った。
「先ほど慣れないことをしてしまって、たいへん疲れていますの。それに内心とても恥じていますのよ。だから、そうっとしておいて、くださらないこと?」
ダーヴィトはおかしそうに笑った。
「では、またの機会に」
「さあ、どうかしら?」
*
主の部屋の前に例の御者がいた。彼はユリウスを認めると、さっと姿を消した。ユリウスが不審に思っていると、父親の部屋から下の姉が出てきた。
「アネロッテ姉さま、お父さまの調子はどう?」
ユリウスは作り笑いをして尋ねた。
「いまは、お休みになっているわ」
アネロッテもわざとらしい笑顔を返す。
しかし、父親は起きていた。ユリウスがいぶかりながら話しかけようとしたら、父親は声を落とすように身振りで示した。また、あの御者がいるのかと思って、カギ穴から廊下を覗くと、今度はアネロッテがいるようだ。良家の令嬢がすることとは、とても思えない。ユリウス自身もそうなのだが。
ユリウスの行動に父親は笑いをこらえているようだった。
父親に引き止められたユリウスは、部屋のなかを見回した。祖父母と若き日の父親がならんだ写真がある。目の前の父親はすっかり老けこんでいるが、その写真のなかの彼は、整った顔立ちのハンサムな青年で、弁護士が言ったように、疑いなく、つい先日まで男装していたユリウスに似ている。だが、それだけではない。どこかで見た記憶がある。ユリウスは首をひねった。
――いつ、どこでだろう?
他にも、気付いたことがある。前妻の写真がない。また、マリア・バルバラが写った写真は数枚あるが、アネロッテは姉といっしょに写ったものしかない。あとは軍服を着た男たちの写真だった。
「父さま、姉さまたちの写真だけど」
と言いかけたところで、アルフレートに遮られ、小声で話すように目くばせされた。
ユリウスは、父親の母親すなわち祖母の写真立てを探るように指示された。言われたとおりにすると、なかから小さな紙が出てきた。父親の目くばせにしたがって紙を広げると、意味不明な文が箇条書きで書き連ねられていた。
「朝に開けるものの中央に立て
観察せよ
敵を追え
味方を振り返れ
*************************
************************* 」
何やら暗号のようだ。ぽかんとしたユリウスに、父親は楽しそうに言った。
「少し遊びに付き合ってくれないか。ただし」
今度はドアの方向に目線を移し、厳しい顔をした。
「この家の誰にも悟られてはならん。言わんとすることはわかるね?」
ユリウスは紙に記された指令の意味を考えながら、窓辺に行って、あたりを見まわした。そこから一番近い写真のなかの軍人が見ている方向に進み、そして突き当たったチェストの前に立って、と繰り返した。途中で何かの鍵を見つけて、また部屋のなかを行ったり来たりして、ついに鍵のかかった小箱を見つけた。なんてことはない。いくつかの他の鍵付小箱とともに机の引き出しのなかにあった。それだけのために部屋中をぐるぐるまわったのだ。なかなか、父親も遊び心があるらしい。父親は満足そうだ。
「ヒント無しで見つけたか。よくやった。そのなかのものはおまえのお守りだ。それを実際に使わないことを祈っている」
箱を開けると短剣があった。ユリウスの祖母がお守りとしていたものを、父親が受け継いだという。凝った装飾が施されているわけでもない、ごく普通の短剣だった。ユリウスは、短剣を持った自分の姿が鏡に映っているのを見て、いつか、どこかで見たような気がした。
短剣の柄には、ラテン語で「光輝くもの」と彫られていた。この剣にも、この言葉にも、どういうわけか既視感がある。
*
久々にいいオペレッタが上演されるというので、マリア・バルバラはユリウスを連れてコンサートホールに出かけた。なんでも妹の存在を少しずつ世間に知らせるようにと父親に言われているそうだ。
ユリウスは、ことあるごとにマリア・バルバラの癪にさわることを言って怒らせてきた。マリア・バルバラは、自分の母親をないがしろにして愛人をつくった父親を嫌悪してきたし、それゆえ、その愛人だったレナーテも好きになれない。ましてや彼らの子であるユリウスの存在も不愉快だった。なのに、なまいきで自分に似たところもある妹は、どこか憎めない。ついつい世話をやいてしまうのだった。
「アーレンスマイヤ嬢!」
呼び止められた二人のアーレンスマイヤ嬢が振り返った。だが、呼び止めた学生は姉のほうには軽くあいさつしただけで、もっぱらユリウスのほうに話しかけた。
「やあ、奇遇だね。ここでまた君に会えるなんて、なんて光栄なんだ」
「奇遇だなんて、よく言うぜ。ヘルマン・ヴィルクリヒをそそのかしたくせに」
隣にいた男子学生が口をはさんだ。崩れた塔のところにいた学生だ。どういうわけかマリア・バルバラが、ヘルマン・ヴィルクリヒの名にそわそわしだした。そこへ聞き覚えのある声がした。
「ほう、どんな魂胆があったのかな」
噂の音楽教師のおでましだ。すると姉からいつもと違う声が聞こえた。
「まあ、ヴィルクリヒ先生!今日の演目はお勧めだと聞いたので、楽しみにして妹を連れてやってまいりましたのよ」
と言ってマリア・バルバラはユリウスを紹介した。こびを売るような声音から、内心ではおおはしゃぎなのが見え見えだ。彼女にしては派手なドレスを選んだ理由と、ユリウスが音楽学校の生徒に声をかけられても、顔をしかめるどころか微笑んでいた理由がわかったような気がした。
「はじめまして、ヴィルクリヒ先生」
ユリウスが何事もなかったかのように挨拶をするものだから、隣の男子学生たちはいまにも笑い出しそうだった。
ヴィルクリヒ先生からは男子学生たちの紹介を受けた。長髪で不機嫌そうな顔をしているほうは、クラウス・ゾンマーシュミットというそうだ。いかにも連れてこられたという様子だ。

*
「お嬢様、お出かけですか?」
ゲルトルートが声をかけてきた。
「ええ、散歩に行くつもりよ。いい天気ですもの」
「あの、お供の者を付けずにですか?」
ユリウスは、アーレンスマイヤ家の令嬢として暮らすというのはこういうことか、と思った。つまり、一人で散歩にも出られない。アーレンスマイヤ家でなくても、年頃の女の子が一人で街中を歩くなんて危険なのはわかるが。
「大丈夫よ。そのためにお父様から護身用のナイフをもらったんですもの」
といい加減な答えをして、さっさと出かけてしまった。
昨日のオペレッタは素晴らしかった。軽快なセリフと歌と踊り。ユリウスはピアノも好きだが、オペレッタはもっと好きになった。あんなふうに歌って踊ってみたいと思った。そして見る人を楽しませたいと思った。
「こうもり」に出てきた旋律が、ユリウスの口から自然ともれてくる。口ずさみながら歩いていたら、いつのまにかレーゲン川まで来ていた。
ユリウスは、無意識に河川敷に下りて、息を吸って、前日に聞いた歌を川に向かって歌い始めた。スカートのすそをひるがえしたり、ステップをふんでみたりもした。しばらくのあいだ、気分よく体を動かし歌っていたのだが、ふと誰かの視線を感じた。堤防のほうを見やると、あの教師の連れの学生がいた。短髪ではない長髪のほう、クラウス何とか、確か冬の鍛冶屋とかいっていたほうだ。タバコも吸っている。不良学生だ。
ユリウスは、のぞき見されたようで不愉快だった。歌うのをやめ、おもしろくなさそうに学生に向かって言った。
「いつから、そこにいるの?」
「そこで、お遊戯が始まったときからさ」
「ずっと見られていたなんて、あまり気持ちのいいものではないわね。お遊戯がそんなに興味深かったかしら、ヴィンターシュミットさん?」
それを聞いた不良学生がゲラゲラ笑い出したので、ユリウスはますます不愉快になった。
「何がおかしいの?」
「ゾンマーシュミットだ。ヴィンターシュミットじゃない」
その小ばかにした態度と名前を間違えたことに、腹立たしさと恥ずかしさが入り混じって、ユリウスの顔が真っ赤になった。そして感情のままに河川敷の階段をつかつかとのぼった。
ユリウスのその剣幕を見て、相手の学生はさらにユリウスをからかった。
「顔から火が出ているぜ。もの覚えが悪いうえに短気なんだな。ヘルマン・ヴィルクリヒのように殴るつもりか?まるで男だ」
「もの覚えが悪い」、「短気」、「まるで男」という言葉がユリウスの怒りに油を注いだ。もの覚えが悪いとういのは侮辱だ。短気なのは図星だから腹が立つ。女の子らしく振る舞えるように努力しているのに、男としてふるまっていたときの習性がなかなか抜けずにイラついているところでもあった。
「もの覚えが悪いんじゃない。不機嫌そうなあなたには、陰鬱な冬のヴィンターのほうがお似合いだってこと。それに、短気な相手を怒らせたという自覚があるんでしょうね?」
ユリウスは、拳を握って、この失礼極まりない男に勢いよくパンチをくり出した。ところが、相手がひょいとよけたので、ユリウスは勢い余ってバランスを崩した。とっさに学生は、ふらついたユリウスを受けとめた。
ユリウスはクラウスとかいう男の胸に抱きとめられている。少しタバコくさい。ユリウスが見あげると、二人の目があった。淡い鳶色の瞳。その瞳にユリウスは吸い込まれそうになり、胸が高鳴った。どのくらい二人で見つめ合っていたことだろう。
やがて、遠くからゲルトルートの声が聞こえた。
「お、お嬢様、何をなさっているのですか?」
続いてヒステリックな上の姉の声がした。
「まあ、はしたない!」
さらに、聞いたことのある男たちの声が続いた。
「クラウス、ぬけがけだ」
「クラウス・ゾンマーシュミット!公道上で何をしている!?」
どうやら勘違いされているようだ。
「違う!」
二人の声が意図せずしてそろった。同時に、ぱっと離れて背を向け合った。二人とも顔が赤い。
ユリウスの新しい人生が始まっていた。偽りのない自分の人生だ。
原案/野の花、文/OgawaSaki
