野の花ギャラリー
暁の夢(前編)
またしても糸が途切れた。はやる気持ちを抑えられずに、ベルリンまで一人で来たが、そのロシア皇女と名乗る女性はいないと門前払いをされたのだ。
記憶のないユリウスは、自分が何者かを知るために、やっきになって自分の過去を探している。だが、手がかかりが現れたと思ったら、ぷつりと切れる。この繰り返しだった。
落胆の息をもらしながら人気のない道を歩いているときに、妙な足音がした。ユリウスに合わせて歩いているようだ。誰かがユリウスのあとをつけている。先ほど、ロシア人の男爵と名乗る男に声をかけられ、ボリシェビキが追跡の手を伸ばしていると聞いた矢先だった。ユリウスは走り出した。
走っても走っても、追っ手は執拗についてくる。息切れがした。以前にも、こんなふうに追われて走ったことがある。知らない言葉を話す黒い服の男たちに追われて逃げた。そのときは、誰かといっしょだった。
――ぼくの手を引いているのは、あれは…
その人とともに逃げ続けているところに、一人の黒髪の女性が助けに現れた。とても美しい人。そして、追っ手を追い払った勇ましい人。彼女は、しゃべるな、とユリウスに忠告した。
次に、時が変わり、場所が変わり、杖をついた老人の姿が窓から見えた。大切なあの人が老人に変装して、ユリウスに会いにきたのだ。一度、記憶を失っても、なおもユリウスの魂が追い求めた人。身をかくすために変装をしている彼に、動転していたユリウスは「逃げて」と叫んでしまった。そればかりか、その人の名を呼んでしまった。その結果、彼の正体が露見し、敵に見つかり、逃げながら銃撃を浴び、川に沈んだ。彼は死んだのだ。だが、ユリウスの心は、目の前で起こった出来事を受け入れられなかった。
――嘘だ。これは夢だ。悪い夢。夢なら覚めて。早く!
何もかも思い出した。ユリウスは、悪夢のような記憶を、思い出したくなくて、無意識に自ら封じ込めていたのだ。生まれながらにして背負った罪、生きながらにして犯した罪の記憶。
どのくらい走っただろうか。やがて、ユリウスは、息が切れ、足がもつれて石畳につまずいた。転んで、立ち上がれずにいると、人影が浮かび上がった。ユリウスのあとをつけていた男だ。見覚えがあった。
――ヤーコプ!
「おまえは、知っていたんだ。ぼくの犯した罪のすべてを…!」
男は何も言わず、暗闇に浮かんだ男の両手だけが、殺意をもって、ユリウスをめがけてくる。ユリウスは、とうとう観念した。もう逃れることはできない。息ができない。苦しい。
ユリウスは心のなかで叫んでいた。
――肉体の死をもって罪をつぐなったしても、あの悲しみは、あの苦しみは、魂が追い求めた数々のあの想いは、あの天地が裂けるような愛はどこへ……!!
首をしめられたユリウスは橋から突き落とされ、体が宙を舞い、水面にぶつかって、水のなかへ沈んだ。痛い。人は死ぬときに、一生を見せらるという。これまでのことが走馬灯のようによみがえる。そこには、光が、ときには強く、ときには細々と灯っていたにも関わらず、それから目を背け、それを受け入れない自分の姿があった。それが最大の罪だったのだ。
もがき苦しむユリウスは、ほとんど残っていない力をふりしぼって、心のなかで最後の救いを求めて叫んだ。救いを求めたのは初めてだったかもしれない。
――神よ、赦したまえ!
そのときだった。すさまじい閃光が広がり、ユリウスを包み込んだ。水のなかにいるはずなのに、とてつもなく眩しい。どこからともなく荘厳な言葉が響いた。
≪ 汝、悔い改めよ。救いのときはきた ≫
厳格で威厳があり、それでいて限りない慈悲と犯すことのできない善に満ちた響きに、ユリウスは圧倒された。同時に、ユリウスを苦しみもがかせてきたものが、一瞬にして消え去った。
≪ 汝もまた、光の子。光の子として生きよ。闇に惑わされてはならない ≫
ユリウスには意味がよくわからなかったが、その言葉には絶対的な崇高さと神秘の力が存在した。おのずと、はい、と心のなかで答えていた。
すると天高くに、小さな点が現れた。それは、次第に大きくなり、みるみるうちに鳥の形になったと思ったら、背中に大きな翼をもった人の形になった。
――天使?
天使が、大きな翼を羽ばたかせながら、光のなかを、はるか上空から地に向かって舞いおりてくる。そして、教会の屋根の高さのあたりでとどまり、背中の矢筒から、矢を1本抜き取って、弓を構えた。矢が狙う方向には、見慣れた建物が見える。
――オルフェウスの窓!
あの人と出会った運命の窓からは、どす黒い煙が立ちのぼっている。これ以上ないほど黒く濃い煙は、地獄の火のようだ。その中心部には、真っ黒な竜がうごめいているのが見えた。そのおぞましい竜は、目がらんらんと赤く光り、二本足で立ち、二本の手を持っており、かつては人間の姿をしていたと思わせる。
過去の記憶をわずかでも取り戻したくて、オルフェウスの窓には何度も通ったが、こんな様子は見たことがなかった。ユリウスもまたこの火のなかにいたのだろうか。
そんなことを思っていると、ユリウスの目の前に、すっと本が浮かび、開かれた。なかは白紙だ。ペンが現れて、そこに、「復讐」、と書き込まれた。そして、ページがめくられ、今度は「嘘」と書き込まれた。
――復讐、嘘
ユリウスは何かを思い出した。そのとき、ヒュンと空気を切る音がした。天使の矢が放たれ、窓の中心部を射た。次の瞬間、その古い窓が、はじめは窓枠の部分がポロポロと崩れ始め、やがて、がらがらと音を立てて塔全体が瓦解した。
ユリウスがぼう然と天使を見あげた。その天使の顔つきは、どこかユリウスに似ている。天使は腰にさしていた短剣を抜き、ユリウスの前に差し出した。
差し出された短剣をユリウスが受け取ったそのときに、天使が発する多くのメッセージが、ユリウスの胸に直接伝わってきた。柄には、「光輝くもの」と刻印されている。ユリウスが天使のほうに顔を戻すと、天使がうなずいた。
「勇気を」
最後に一言だけ残して、天使は翼を広げて天に向かって飛翔し、あっというまに視界から消えた。

「ユリウス、ユリウス!?」
聞き慣れた母レナーテの取り乱した声が聞える。ユリウスの目がうっすらと開いた。
――ここは、どこ?
「よかったわ。気がついたのね」
ユリウスの手を握ったまま、レナーテが心からほっとした声で、ユリウスの顔をのぞきこんでいる。
――ぼくは、生きている?首をしめられ、川に落とされたのでは?
母親の赤くなった目に光るものが、ぼんやりと見えた。その後ろには、質素なテーブルが置かれている。だが、母親もテーブルも見慣れたはずなのに、なんだかひどく懐かしく感じられる。
「ここは、ぼくたちの部屋」
力なくユリウスはつぶやいた。
確かに、ユリウス親子の住まいだった。物心ついてから、ずっと母親と二人で暮らしている古ぼけた狭いアパート。それ以外にはあり得ない。それなのに、どこか別のところから迷い込んだような錯覚にとらわれた。
――まるで長い夢をみていたようだ。苦しくて悲しい夢
でも、どうしてベッドのなかにいるのか、なぜ母親が心配しているのか、わからない。体も痛む。理由を聞いたら、いじめっ子たちに川につき落とされたそうだ。あのマイン川に橋から突き落とされて、簡単に泳いで戻れるわけがない。おそれをなした悪ガキたちの一人が、知らせに来て、母親とヤーンがかけつけた。運よく、偶然とおりがかった小舟に助けられたが、数日間意識不明の状態が続いたという。
「気が付いたかね。まあ、大丈夫だろうと思っていたが。川に落ちたときに全身を打撲しているから、しばらく痛むだろう」
どこからともなく現れたヤーンに、母親が礼を述べた。
「いやいや、よかった。来月やっと、念願のアーレンスマイヤ家へ行くことになっていたのに、ここで何かあったら、今までの苦労が水の泡だ」
続けて、救助にあたった船主は、子どもが女の子だと知って驚ていたが、彼には金銭を渡して口止めをした、と恩着せがましく話した。橋から落ちたのは、男の子ということになっている。
あいかわらず、いやな奴だが、こんな無免許の医者でも、性別を偽っているユリウス親子は、頼るほかなかった。このニセ医者は、ユリウスがアーレンスマイヤ家の遺産を受け継いだときの、報酬を期待しているのだ。ユリウスを男として育てるように母をそそのかしたのも、この男だ。
ヤーンは、しばらく安静にするように指示し、ユリウスたちのアパートから帰った。
ユリウスは、何が起こったのか、思い出した。
「女みたいだ」
弱虫にからかわれたのが発端だった。確かに、同じ年頃の男の子たちは、背が伸び、声が低くなり、大人の男に少しずつ近付いている。いっぽうのユリウスは、背もさほど伸びず、子どもの声とは違うのに男の声ではないし、髭をそったあともなく、口まわりはつるつるしている。
だが、黙って引き下がるのは男ではない。ユリウスは、からかわれたときには、条件反射のように攻撃に出る。その弱虫をなぐったら、悪ガキ仲間が集まって、ユリウスを取り囲んだ。ユリウスは、自分より大きな体の少年をなぐり、隙を見つけて逃げようとしたが、取り押さえられてしまった。橋の上で追いつめられ、女みたいだとからかわれ続け、女じゃないなら証拠を見せてみろ、とはやしたてられた。そして、ついには服を脱がされそうになったのだ。いつも護身用に持っているナイフをなんとか取り出したが、多勢に無勢だ。ナイフも奪われるだろう。逃げる先は、もはや川しかなかった。
――こんなところで服を脱がされたり、破られたりするぐらいなら
ナイフでいじめっ子たちがひるんだすきに、ユリウスの体が宙に舞い、水中に沈んでいった。川面にぶつかったときの激痛に見舞われたまま、鼻に水が入り、呼吸ができずに苦しんだ。そのあとのことは覚えていない。
そのときに何か夢を見たような気がする。夢というには、あまりにもなまなましく、まるで実際に体験したことのようだった。水中で、もがき苦しむなかで、肉体だけでなく、魂が苦しみ痛むのを感じた。魂に光が届かない苦しみだ。
ユリウスが男と偽り、そのために犠牲になった人がいた。良心が痛んだ。そして、嘘がユリウスの善なる部分を傷付け、不安を増大させた。裁きをおそれ、心休まることはなかった。ユリウスの魂は破滅への道を歩んでいた。復讐心が復讐心と共鳴し、連鎖し、復讐しようとした者は、復讐される立場になった。
だが、もう一つ何か、陰惨きわまりないものが存在したような気がする。ユリウスには、それが何だか思い出せなかった。
その夢を見て、生きるからには、恥ずかしくない生き方をしたいと思った。正義をつらぬいて生きたい。そのためには、憎しみを捨て、過ちを認め、神の裁きの前でも耐えられる、正しく嘘のない人生にすることだ。
ユリウスは、母親に自分の気持ちをどうやって切り出そうか迷った。これまで母親に同情し、母親の気持ちを考え、自分の感情を抑えてきたのだ。だが、母親にもこれ以上の罪を犯させてはいけない。そんな考えが浮かんだ。母親は、彼女を捨てた父親に復讐し財産を得るために、女の子のユリウスを男として育ててきたのだ。
「母さん、もう無理だよ。ぼくは男になんかなれっこないし、男のふりをするのも限界だよ。母さんも男と女の違いぐらいわかるでしょう?ぼくはもう、月のものも来てるし、胸だってふくらんできた。声だって変わってきている」
それに、アーレンスマイヤ家の跡取になって、遺産を手に入れたとしても、そのまま男として生きられるのか、ユリウスは疑問だった。年を重ねれば、さらに性差ははっきりしてくる。近所の夫婦を見れば、そんなことは明らかだ。さらに、跡取として財産を正式に引き継ぐのは、父親の死後だ。父親の死期を誰が決めるというのだろう。もしかしたら、あのヤーンが何かしかけるのかもしれない。いくら母親が、自分を捨てた父親を憎んでいるとはいえ、そんな犯罪のうえに、財産を手に入れたところで、本当に満足なのだろうか。
レナーテは、はっとしたが、顔に、とまどいの色を浮かべている。その顔がユリウスにはつらかった。ユリウスの出生が、母親に苦しみをもたらしたという罪悪感を覚えるのだ。これ以上、母親を苦しませてはいけない、と思ったし、真実を明らかにしたときの不安も大きかった。だが、このときは違った。勇気を出すべきときだった。
「それに、ぼくが性別を偽るせいで、誰かが犠牲になったり、不幸になったりしたら?そんな気がするんだ。だから、これ以上、男として生きていたくないし、生きていてはいけないと思う」
母親の顔を見ていられなくなったユリウスは、うつむいて言った。
「ぼくのせいで、母さんにつらい思いをさせてしまったし、ぼくさえ生まれてこなければ、母さんも幸福に生きられたかもしれない。でも、ぼくは嘘はいけないと思う。ぼくさえ、いなければ」
涙ぐんだレナーテは、ユリウスの話をさえぎった。
「ユリウス、愛しいユリウス。この二、三日間、あなたを失うかもしれないと思うと、母さんも生きた心地がしなかったの。あなたが生きてくれさえすればいい、と何度も何度も神様にお願いしたわ。神様にお願いできるわたしなんかではないのにね。あなたがいるだけで、本当は幸せなのに。そんな大切なことに気付かずに、欲望に目がくらんで、とても愚かだったわ」
そして、ユリウスを抱きしめ、何度も謝り、許しを請いながら、泣き崩れた。
「だから、生まれてこなかったほうがいいなんて、言わないでちょうだい」
「ぼくが女の子になって、なにかあっても、母さんには迷惑がかからないようにしたい」
「母さんが、すべての罪を背負います。あなたには、なんの罪もないのだから」
「ぼくが生まれさえしなければ、母さんがこんな間違いを犯すことはなかったんだ。だから」
決心したレナーテは、再びユリウスをさえぎった。
「ユリウス、あなたが心配することはないの。母さんがきっとなんとかします」
母娘は、抱き合って泣いた。そのときに、ユリウスの胸に、母親が大切に首にかけているペンダントがあたった。聖ゲオルクのターラー硬貨だ。
ユリウスは硬貨を手にもって見つめた。聖ゲオルクは竜退治の聖人だ。竜。何かとてつもなく陰惨なものが、うっすらと頭に浮んだ。
「母さん、聖ゲオルクは母さんを幸せにしてくれた?ぼくでは、かわりになれないの?」
レナーテはペンダントを首から外し、ユリウスの首にかけた。
「母さんは、あなたがいるだけで幸せよ。今度は、あなたが幸福になりますように」

