ユリウスの肖像

53
キーラがユリウスに会いたいと言わなくなった。
「おとうさまとおかあさまは、かくれんぼしているんでしょ?」
――かくれんぼ?
怪訝に思ったレオニードは、顔を少ししかめてみせて、隠しごとをしていないかキーラに尋ねた。
「ひみつよ。キーラはこうへいなの」
キーラは少しおびえたようだったが、何か言いそうになるのを必死にこらえていた。
そんな娘を見て、レオニードは口元をゆるめた。
「キーラは口がかたいな。だが、お父さまはお母さまを必ず見つける」
それまで、使用人たちがくつろいで、おしゃべりに興じていた休憩所に、突如、緊張感が走った。
ユリウスの向かいに座っていた家政婦が、あわてて起立して背筋を伸ばした。すぐに皆も追随して、家政婦と同じ向きで直立不動の姿勢を取った。
何ごとだろうかと、とまどいながら、ユリウスも皆と同じように立ち上がって後ろを振り返った。すると、厨房付近に姿を見せないはずの人物が、コツコツと足音を立てながら近づいて来るのが見えた。
――レオニード! どうして、ここに?
「見慣れない者がいるようだ」
威厳のある声の主が、ユリウスの前で止まった。
「おまえの立場は?」
「アンナの友人です、侯爵様。彼女に赤ちゃんが生まれるので、手伝いに来たのです」
ユリウスはお辞儀をして言った。万が一のときには、こう答えるように皆と示しあわせてある。アンナと友人なのは間違いない。
「誰の許可を得た?」
侯爵の低い声に、皆は凍りついた。
「どうか誰も罰しないで。責められるべきは、わたしです」
「そのとおりだ。おまえのために誰かが処罰されることになる。早くここから去ることだ」
「それは」
ユリウスは言い返そうとしたが、侯爵がさえぎるほうが早かった。
「代わりに、おまえに新しい仕事を与えよう」
そう言うと侯爵は一呼吸おいた。ユリウスは、キーラと会えなくなると思うと胸が張り裂けそうだった。いったいどんな宣告がされるのだろう。ユリウスは聞きたくなかった。
「ここの女主人の仕事だ」
皆が息をのんでユリウスの反応をうかがっている。だが、心の耳をふさいだユリウスは、必死になって訴え続けた。
「どうか追い出さないでください。ここが好きなんです」
「女主人となれば自由に出入り可能だが、何が問題なのだ?」
しかし、ユリウスは、今度は、新しい女主人が来るから、元愛人はここから出て行くように申し渡されたのだと思った。ユスーポフ侯爵の縁談話が絶えないことは、ユリウスも知っている。噂話を聞くたびに胸が痛んだものだ。
「言い直そう。私と結婚してくれないか」
頭が混乱していたユリウスは、聞き違えたのかと思った。
「レオニード、今、何て?」
「私との結婚はいやなのか」
「結婚?」
レオニードがうなずいた。
「あなたが誰と?」
「おまえとだ。結婚すると言ってくれないのか」
求婚されたことをやっと理解したユリウスの目に、涙が浮かんだ。胸がいっぱいになって声が出ない。
そんなユリウスの様子にレオニードは表情をゆるめたが、すぐにユリウスを引き寄せ、そして、驚くべきことに皆の前でユリウスにキスを始めた。家政婦以下一同は、目の前で展開している普段の主人らしからぬ行動に、唖然としている。
二人の唇が離れると、レオニードが尋ねた。
「私の意思は伝わったか? 返事を聞きたい」
「もちろん、断る理由はありません」
その瞬間に、わあっというどよめきが起こり、拍手が鳴り響き、祝福の言葉がこだました。ユリウスは、皆にお辞儀して、ありがとう、ありがとう、と涙声で繰り返した。そして、レオニードに手を引かれて休憩室を後にした。背後は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。

レオニードは、この後、基地に行き、三日後に戻るそうだ。結婚式はその日にとりおこなうという。
「三日後?」
あまりに急で、婚礼の準備など何一つしていないユリウスは耳を疑った。
レオニードは、財産と称号を求めて近づいてくる女性たちに辟易しているうえに、再婚相手の紹介の多さにうんざりしているそうだ。そのため、可能な限り早く結婚したいという。
「つまり、あなたがわたしと結婚するのは、言い寄ってくる女性対策のためなのね?」
口をとがらせてみせたユリウスに、レオニードは真顔で答えた。
「もっと早く求婚するつもりだった。どこの誰とも知らない男を好きになり、その男を追って外国から来た女に、私は惹かれていた。その男のように愛されたかったのだろうな。私という人間は、常にユスーポフ侯爵という名でしか判断されないからだ。その男とおまえが会っていたことで、心が揺れたのだ。私としたことが、おまえのこととなると冷静さを失うらしい」
ユリウスはレオニードの気持ちを思って、微笑んだ。
「あなたは、あなたよ。わたしは、あなたがユスーポフ侯爵じゃなくても愛したわ。むしろユスーポフ侯爵じゃないほうがいいくらい」
「ユスーポフ侯爵が不満なのか」
レオニードが意外とでもいうように眉を上げた。
「ええ、嫉妬されるのは愉快ではないもの。でも、あなたがユスーポフ侯爵であっても好きよ」
「そのように言われたのは初めてだ」
レオニードは軽く笑った。
「あなたも、わたしが誰であっても愛してくれたわ」
*
ユリウスは、白地に金色のレースが施されたドレスと、レオニードの母親が婚礼のときに身に着けたという繊細なベールにため息をついた。ドレスは、数週間前になじみの工房で、すでに仕立てられており、微細な調整が必要な程度だった。ベールを古い衣装箱から取り出したのは、フランスから戻ったばかりのカティアだった。
「わたしがつくったのよ」
カティアは、懐かしそうにベールを手に取って言った。カティアが夢中になって作製したというのは、レオニードの母親の衣装類だったのだ。ユリウスは、カティアがマカロフ家の出身で、あのオレグと姉弟だということを、このときに初めて知った。
カティアは、レオニードの母親とともに学び育った。ことにレオニードの祖父に可愛がられ、目をかけてもらったそうだ。ユリウスは、レオニードの母親と同じく、カティアの作品を身に着けて結婚式に臨む。由緒ある世襲の侯爵の妻になるのだ。
ヴェーラとリュドミールは、新しい家族を心から歓迎した。ヴェーラは、兄を信じて黙って様子を見ていたが、内心やきもきしていたという。

「おかあさま、きれい。キーラもきてみたい」
キーラは美しく装った母親を見て、大はしゃぎだった。
ユリウスが礼拝堂に入ると、正面にロシア正教の八端十字架が見えた。祭壇の前に立ったユリウスは、不思議な感覚にとらわれた。胸の奥からあふれ出てくる喜び。隣の力強い男性の存在。すべてが、どこかですでに経験したことのような気がしてならないのだ。しかし、それが、いつ、どこでなのかは思い出せない。
ユリウスが、あれこれと過去を思い出し、万感の思いにひたっているうちに、長い儀式も終わっていた。
式もその後の祝賀会も急なことだったので、ごく内輪だけで行われた。出席者のほとんどは使用人たちだった。カティアとロドニン、オレグ、ペトロワ、アンナ、ボリス、家政婦、執事、イリューシンはじめ警備たち、そしてロストフスキーもいた。料理人たちは料理に腕をふるった。
ユリウスはレオニードとともに、皆とともに、光とともに歩んできた。これからも光とともに歩むだろう。
祝宴で、花嫁と花婿が最初のダンスを始めたときに、ブランシュが広間にまぎれ込んできた。そして、しばらく二人のまわりで楽しそうに飛び跳ねていたが、やがて踊っているユリウスとレオニードの腕に前足をかけて、いっしょに踊り出した。
「ブランシュってば」
ユリウスが笑った。レオニードも笑った。会場が笑いに包まれた。
「キーラもいれて」
(終わり)