ユリウスの肖像
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「奥さまのことは、わたしたちがしっかりとお守りします。しばらくキーラお嬢様とお会いできないのは、つらいと思いますが、命を落とすよりも、ましってものです」
ペトロワは、ユリウスが誘拐されたと聞いて、震えあがったらしい。使用人たちは、ユリウスの身を案じたレオニードから、いっそう安全に配慮するよう要請されたそうだ。
その結果、ユリウスは、外出もままならず、キーラとも会えず、鬱々と過ごしていた。そんなとき、軽快な足音とともに白い雲が居間に飛び込んできた。
「ブランシュ!」
ひざの上に飛びのったブランシュは少々重いが、ユリウスもふわふわの背や頭をなでた。ブランシュは、いつだってユリウスを見捨てない。
――ブランシュが来たということは
ユリウスは立ち上がって階段をおりた。
「オレグ!」
「ブランシュがユリア様に会いたそうにしてたんで、散歩に連れ出したんです」
キーラの様子を尋ねると、寂しそうだが健気にも明るく振る舞っているそうだ。キーラには、思いやりがあり、行動力もあるという。ミハイルの弟が転んだときも、キーラは、真っ先にかけ寄り、助け起こして、血をふいたりしたそうだ。
しかし、キーラには、母親が見つかったことは知らされていないらしい。侯爵邸と舘を行き来する警備たちからも、同じことを聞いた。警備たちはユリウスと気心の知れた者ばかりで、ユリウスとキーラにいたく同情している。
「館の皆さんと話がありますんで、その間、ブランシュと遊んであげてください」
*
翌日、ペトロワが銀色のトレーに名刺をのせて来客を告げた。名刺を見たユリウスは驚きの声を発した。
「カティア!」
カティアはユリウスが誘拐されたと聞き、取るものも取りあえずに帰国したのだった。
「キーラお嬢様とお会いました。とても可愛らしく、思いやりのあるお嬢様ですね。会えないのは耐えがたいでしょう」
カティアは、警備やロストフスキー大尉、オレグたちから、ユリウスの捜索状況やレオニードの様子を聞き出して、事態の把握に努めたそうだ。だから、二人の間に何があったのかも想像がつくと言った。
カティアは、数年前にユリウスが失踪したときに、侯爵の依頼でレーゲンスブルクに行ったことを打ち明けた。
ユリウスがドイツに帰る可能性もあったからだ。その可能性は低いとされたが、ユリウスの父親が皇室の秘密に関わる人物であり、カティア以上の適任者がいないという判断だった。しかし、カティアには、その秘密の内容は明かされなかった。
そのときに侯爵から聞いたユリウスの過去は、にわかには信じられなかったそうだ。だが、侯爵が冗談で言っているとも思われなかったし、ユリウスの様子からありうるとも思ったという。
――年頃の女の子が男と偽り、男子校に通うなんて!
ドイツに行ったことを黙っていたのは、ユリウスが過去について口を閉ざしていたため、言及しないほうがいいと判断したからだそうだ。
カティアは、しばらくレーゲンスブルクに滞在し、現地の社交会にも顔を出すようになった。そうするうちに、アーレンスマイヤ家の跡取り息子の行動や性格、一家の話も耳に入るようになった。
「オルフェウスの窓」の伝説についても耳にした。ユリウスがロシアまで追ってきた恋人とは、その窓で出会ったのだと直感したという。
「侯爵様たちが見つけたメッセージは、その男性にあてたものなのでしょう?」
ユリウスはうなずいて、彼は本名アレクセイ・ミハイロフといって、シベリア流刑になったボリシェビキだと説明した。以前アレクセイに会ったことを黙っていたために、誤解を大きくしてしまったことも話した。
「侯爵様は、あなたも下心があって近づいてきた、とお考えなのかもしれません」
「カティア、あなたまで。わたしはエフレムとは違うし、彼の財産や地位が目当てではないわ」
ここにきて自分を信じてくれる人がいないなんて、ユリウスは泣きたくなった。
「わたしはレオニードを愛しています。財産も後ろ盾もないわたしに、あるものといったら、彼やキーラに対する愛だけですもの」
「もし彼が今の地位になかったら?」
「いまの彼とは違う人間になっていたかもしれませんが、仕事熱心で、ときには冷ややかなほど落ち着いて、まわりの人たちのことをよく観察するところは変わらないでしょう。それに、本質的にはとても愛情深い。そんな彼が好きです」
ユリウスは、レオニードがいかに娘にあまいかも話した。カティアはそんなユリウスを励ました。
「侯爵様は、また来るとおっしゃったのでしょう? 望みはあると思いますよ。あなたを愛しているからこそ、嫉妬の気持ちがあるのかもしれませんが、彼への思いが真実なら、強くあるべきだわ」
レオニードは言葉を違(たが)えない男だ。必ずまた来る。そのときに、もう一度、素直に気持ちを伝えよう。
そう決意したユリウスは、長い間、気がかりだったことを尋ねた。
「ところで、姉のマリア・バルバラはどうしていたか、ご存知ですか?」
「あなたが知られたくないことを、話してしまうかもしれないから、直接話してはいないのですが、当時はお元気そうに見えました」
毒のせいで寝たきりだった彼女は、どうやら回復したようだ。ほっとしたユリウスに、カティアは続けた。
「行方不明の妹さんと弟さんを探していらっしゃいました」
ユリウスは心苦しさでいっぱいになった。だが、すぐに顔が真っ青になった。
「アネロッテが行方不明?」
声が裏返ったユリウスにカティアは驚いたが、少し考えてから事実を伝えた。
「お二人が姿を消した後には、おびただしい血痕が残っていたとか」
ユリウスは少しためらってから、最後の夜の出来事と許しがたい異母姉の所業を話した。カティアには真実を知って欲しかったからだ。
今度はカティアの顔が驚きでこわばったので、ユリウスは小声でつぶやいた。
「軽蔑されても仕方がない話ですが」
カティアは頭を振った。
「とんでもない。よく話してくださいました」
「レオニードも、嫌悪することなく、わたしの過去を受け入れてくれました。包容力があることも、彼のことが好きな理由よ」
このとき、ユリウスは自分の存在そのものを受け入れてくれたレオニードのことを思い、感極(かんきわ)まって涙声になっていた。
思い返せば、ユリウスの身元がまだ明らかではなかったときにさえ、政敵の陰謀で連れ去られたユリウスを取り返すために、レオニードは手を尽くした。打つ手はないと思われる状況だったそうだが、彼は行動したのだ。今回も、ユリウスを探し当て、自ら出向いた。
他方、クラウスは、シベリアでユリウスのことを思ったと言ってはいたが、実際にはユリウスを探すつもりはなかったようだ。彼は、ユリウスに会うために汽車から川へ飛び込むことさえしたが、翌日にはミュンヘンの屋敷にユリウスを置き去りにした。彼との恋はとうに終わっていたのだ。それでもユリウスの心には、どこか心残りがあったようだ。
しかし、ガリーナたちのアパートに来たレオニードの姿を見たとたん、その迷いは消え去った。以前、レオニードの存在によって幻覚が追いはらわれたときのようだった。
ユリウスは、レオニードを純粋に愛している。レオニードの誤解を解きたいし、キーラに会いたいと思う。だが、叶うまでに時間がかかるかもしれない。そこで、その間に、気がかりなことを一つずつ消していくことにした。それが、いまユリウスにできることだ。
その一つがガリーナのことだ。カティアに聞いたら、意外にもガリーナに対しては、その場で尋問しただけで、逮捕はしていないとのことだった。ユリウスは胸をなでおろした。