ユリウスの肖像
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ユリウスが掃き掃除の手を止めて窓の外を見ると、先ほどまで音も立てずに降っていた雨がやんでいた。
こんな肌寒いときは、可愛いキーラのことが特に気にかかる。体調を崩したり、寂しがったりしていないだろうか。
過去には、キーラがユスーポフ邸に滞在して二、三日会わないことは何度かあった。キーラは帰って来ると、ミハイルたちと遊んだこと、オレグに馬に乗せてもらったことなどを、全身を使って楽しそうに話し、ユリウスと離れていて寂しかったという様子は決して見せない。
けれども、ヴェーラやオレグに言わせると、そんなふうに母親に話すときのキーラは、父親と会うときと同じぐらいの最高の笑顔を見せているのだそうだ。そのキーラには、かれこれ一か月以上会っていない。
キーラに会いたい気持ちがつのる一方で、アレクセイといると時間が止まって欲しいと思う。アレクセイの「愛している」という一言で、ユリウスの心が魔法をかけられたようにおどり出したのだ。
そんなユリウスの頭に、キーラを引き取って、ともにアレクセイと暮らす、という考えが何度か去来した。だが、キーラと大好きな父親を引き離すのは残酷なことだ。ユリウスは自分勝手な考えに頭を横に振った。
そのとき、どこかから犬が吠えるのが聞こえた。声のするほうを目で探すと、すぐ近くの建物の角から、白い、くるんとした尻尾が見えた。その犬の声は飼い主に何かを訴えているようで、ブランシュを連想させた。
ブランシュが、半ば雪に埋もれていたユリウスを発見して、あんなふうに吠えてレオニードたちに知らせなければ、ユリウスは今ごろ存在しなかっただろう。
ユリウスが死にかけたあのとき、何かの夢を見たように思う。夢のなかでは、亡き母レナーテがいたような気がする。それまでのユリウスは母親の死から目をそむけてきたが、このときには受け止められるほどには強くなっていた。
ユリウスの母親は、「オルフェウスの窓」で出会ったピアノ教師のヴィルクリヒ先生と心中した。伝説では、「オルフェウスの窓」で出会った男女は恋に落ち、そして、その恋は必ず悲劇に終わるという。
「まるでゲルマンの森に巣くう魔女が、黒い魔法をかけているようだな」
窓の言い伝えについて、レオニードに話したときに言われたことだ。おとぎ話など鼻で笑いそうな彼から、魔法という言葉を聞いて、ユリウスはあっけにとられたが、黒い魔法という言葉はぴったりだとも思った。まさに母親たちは、不幸の魔法をかけられたかのようだったからだ。
ヴィルクリヒ先生の両親は、ユリウスの父親によって殺された。両親だけでなく一家の使用人までもだ。先生は、その憎しみを抱き続け、アーレンスマイヤ家への復讐の機会をうかがっていた。それなのに、運命の窓で出会って恋に落ちたのは、こともあろうか復讐対象の女性だったのだ。
そんなヴィルクリヒ先生が、ユリウスの母親とともに死んだ。それは、先生が復讐よりも悲劇の窓で出会った恋人との愛と死を選んだことを意味する。先生の祖父にあたる校長先生が最期に言ったように、愛は憎しみにまさったのだ。
当時は気づかなかったが、ユリウスの精神はこのときから急激にむしばまれ始めた。振り返ってみると、先生と母親のその愛が、ユリウスの心に耐えがたい衝撃を与えていたのだ。
――母さま、あなたにとってわたしは何なのです?
ユリウスは、何度もそう自問しながらも、母親が自分を見捨てることはない、と心のどこかで信じていた。しかし、母親は、ユリウスと生きることよりも、先生と死ぬことを選んだのだ。
ユリウスと違って、キーラには大好きな父親がいる。だからといって、母親に捨てられる苦しみを味わわせたくはない。そもそも、ユリウスのほうがキーラとこのまま離れて暮らすなんて、気が狂いそうだ。
あのとき、校長先生は、たった一人の娘の幸せのためなら何でもできると言った。その気持ちは、母となったユリウスは身をもって理解できる。キーラのためなら、自分のささやかな幸せが何だというのだろう。
そう考えると、ユリウスは、母親が自分よりも先生との死を選んだことが腑に落ちない。
――母さま、最期のときに、一瞬たりともわたしのことを考えてくれた?
ユリウスは、はっとした。ヴィルクリヒ先生の恋人の名はクリームヒルトで、ユリウスの母親の名はレナーテだ。愛するクリームヒルトが因縁のアーレンスマイヤ夫人だと、先生はいつ知ったのだろうか。ユリウスは、前後の出来事と、考えられ得る可能性をあれこれと頭のなかでめぐらせた。
もしかしたら、先生は、アーレンスマイヤ夫人を窓から突き落とそうとして、そのときになって初めて、彼女がクリームヒルトと同一人物だと気づいたのかもしれない。だから、とっさに彼女を助けようとしたが、まにあわなかったのかもしれない。
しかし、それはただの気休めの推測に過ぎない。にも関わらず、ユリウスの心をいびつにしていた何かが消えていった。
――母さまは、わたしを捨てたのではなかったのかもしれない
そして、次にユリウスの頭にレオニードのことが浮かんだ。
もしユリウスがアレクセイのもとに走れば、レオニードに父親と同じ目にあわせることになる。ユリウスの父親も、前妻には浮気され、愛人からは裏切られたと思っていただろう。
レオニードは、妻アデールの不義など気にもしていないように見える。しかし、ユリウスには、彼のプライドが傷ついていないとは思えなかった。
レオニード・ユスーポフは誇り高い侯爵なのだ。自己抑制力が強く、動揺を決して人前で見せないだけだ。家長として、有力貴族として、軍の指揮官として冷静で自信に満ちた力強い姿しか見せない。父親が暗殺されたときを除けば、たとえユリウスであっても感情のぶれを見せたことはない。
あるいは、レオニードは、出来事や情報を頭脳で理性的に処理し、心や感情を表現するすべを知らないのかもしれない。そこが気分次第で感情表現の豊かなアレクセイと大きく異なるところだ。
ユリウスは、そんな対照的な二人をともに愛おしく感じている。心が二人の男の間で揺れ動いた。
――女性は皆、愛の使者なのよ
カティアの声が頭のなかで響いた。愛すること。愛は、相手を幸福にすることだ。愛には魔法の力がある。だが、自己中心的な求めるだけの愛は苦しみを生む。
――あなたは、誰を最も幸福にしたいのかしら
カティアだったら、こう問いかけるだろう。
*
ガリーナがボリシェビキの機関誌を、ユリウスがドストエフスキーの小説を読んでいるときだった。何かを感じ取ったガリーナがあわてて窓際から路地をこっそりと見おろした。
「憲兵だわ」
ガリーナが叫んだ。
ユリウスも窓際にかけ寄った。確かに憲兵のようだ。憲兵のなかの一人が顔を上げた。
――まさか
大あわてで寝室にかけ込んだガリーナが、ユリウスを呼んだ。
「こっちへ来て! その本もいっしょに。このベッドを動かして隠れるのよ。さあ急いで」
ベッドの下の床板をはずすと、二人ほど入れる空間が現れた。ガリーナは、ユリウスをそこに隠して、一人で憲兵たちに対応するつもりだと言った。ユリウスは、ガリーナこそ中に隠れるべきだと主張し、彼女の手をつかんで押し込んだ。
「おなかの子を大切にしなければ。わたしだって、うまくやれるわ」
ユリウスは、そう言って板をはめ込み、ベッドを元の位置に戻した。
そして、机の引き出しから便箋を取り出してメッセージを書きつけ、ふたつきの鍋のなかに入れた。ここならガリーナが見つけるだろう。
「アレクセイ、さようなら。わたしは帰るべきところに帰ります。あなたの幸福を祈っています。心から」
