野の花ギャラリー
初雪の日に
粉雪がちらちらと舞い始めた。今年の初雪は少し遅いようだ。あの不思議な魅力を持ったユリウスと初めて出会ったのも、例年より遅く初雪がちらつく頃だった。もう数年も前のことだ。こんな冬は、あの子のことが鮮やかに思い出される。
その日、リヒャルト・ライヒェルが新しい筆記具を求めて文房具店を出ると、細かな雪が舞っていた。早く家で温かいお茶で一服しようと、コートの襟を立てて、あまり通らない近道を行ったときだ。路地の一角が光があたったように明るかった。そこには子猫を抱えた金髪の少年がいた。生き物を愛おしむ眼差しが、透明で清らかで、まるで天使のようだった。
その少年にライヒェルの目がくぎ付けになった。少年の様子が数年前に亡くなった娘マルグレーテと重なったのだ。幼いマルグレーテは、猫や犬、ウサギなどの動物が大好きで、友人宅に子猫が生まれたときなどは、じっと眺めていたものだ。残念ながら、当時は、引っ越しの準備などで猫を飼いたいというマルグレーテの願いを叶えてやることはできなかった。
少年は、ライヒェルが見つめているのに気付くと、顔に怒りの表情を浮かべた。
「おじさんが、このセディを捨てたの?」
セディというのは、少年の腕の中にいる猫のことらしい。猫を捨てたなんて、とんでもない濡れ衣だ、とライヒェルは主張した。偶然通りかかっただけなのだ。ライヒェルは、少年の姿が娘に似ていたものだから、ついつい見入ってしまったことを説明すると、少年は憮然として言った。
「ぼくは女なんかじゃない!」
この年頃の子どもは、性別を間違えられるのを嫌うものだ。
「ああ、君は女の子じゃない」
ライヒェルは、少年をなだめてから尋ねた。
「ところで、どうして私がその猫を捨てたと思ったんだい?」
「だって、セディがおじさんをこわがらなかったもの」
「君がその猫の世話をしているのかい?」
少年は悲し気に首を横に振った。喜怒哀楽がはっきりしていて子どもらしい。
「そうしたいんだけど、うちはだめなんだ。誰かセディを可愛がってくれる人を探さなきゃ」
「セディという名は、君が付けたのかい」
少年は首を今度は縦に振った。
聞けば、好きな小説の主人公の名前から付けたらしい。児童文学はライヒェルの専門外だったが、娘がよく読んでいた本の主人公もそんな名前だったような気がする。
どうやら読書が好きな少年のようだ。しばらく少年と会話のやり取りをした後、ライヒェルはあることを思いついた。
「では、セディは私が引き取ろう」
少年の青い瞳が輝いた。子猫を案じる心優しい子だ。
「ただし、条件がある」
「どんな?」
少年は警戒したようだ。
「君が週に一、二回わが家に来て、子猫の世話をすること。子猫も君がいたほうが喜ぶだろう。こんなにもなついているのだから」
少年は少し考え込んだ。
「知らない人と話しちゃいけないって、かあさんが」
ライヒェルは、少年がすでに母親の言いつけを破っているのが、おかしかったので、ついつい笑って話をさえぎってしまった。
「そのとおりだ。君のおかあさんは正しい。私はザクセン・ハウゼン地区に住んでいるリヒャルト・ライヒェルだ。フランス文学の研究をしている。今度、おかあさんといっしょに来てみなさい」
そう言って少年に住所を教えた。
「ところで、君の名は何だね?」
「ユリウス」

翌日、申し訳なさそうな表情をした母親とともにユリウスが現れた。母親は美人だが、どこかいわくありげな雰囲気がある。
「息子が、どうしても子猫に会いたいというので」
ライヒェルと妻のクリスタは二人を迎え入れた。ユリウスたちを居間に案内すると、ユリウスはあるものに興味を持ったようだ。
だが、セディがさっそくユリウスのところにすり寄ってきたので、ユリウスは頼まれたブラッシングを始めた。セディは、まだ少し警戒しているのか、ライヒェル夫妻にはあまり体を触らせない。
ユリウスが猫とじゃれ合っている間、ライヒェル夫妻はレナーテから親子の窮状を聞き、縫物の仕事を紹介することになった。
セディとしばらく遊んだ後、ユリウスは気になってしかたがなかったものに近寄った。ピアノだ。
「触っていいですか」
「ピアノに興味があるの?」
妻のクリスタが尋ねると、ユリウスは少しうつむいた。レナーテが、ユリウスがピアノが大好きで、ピアノの音がすると、その場から離れないことなどを話した。
いわくありげな母子家庭では、ピアノを買い、きちんとしたレッスンを受けさせるのはほぼ不可能だろう。
「では、セディの世話をしに来たときにピアノを弾きましょう」
熱心なカトリック信者で、人助けを厭わない妻のクリスタが思いついたように言った。ライヒェルが想像したとおり、妻はユリウスが気に入ったようだ。
娘を亡くし、息子たちは独立してしまったので、子ども好きのクリスタは寂しい思いをしている。ユリウスにセディの世話のために、我が家に来てくれるように提案したのは、そんな妻のためだったのだ。
クリスタのこの申し出にユリウスの目は輝いた。初めて出会ったときにライヒェルが惹かれた瞳の輝きだ。ユリウスの母親もこの瞳に弱いらしい。仕事も紹介してもらううえに、息子にピアノを教えてもらうなんて、とかしこまっていたが、息子の望みをできる限り叶えてやりたいという気持ちには逆らえなかったようだ。
一か月もするとセディもずいぶんライヒェル夫妻になついてきた。セディは、ライヒェルが帰宅する時間になると、玄関の近くで待っているようにもなった。ユリウスが来る日も待っている。セディは、どうやらユリウスが来る日も分かるらしい。
クリスタは、ユリウスの来る日の前には、張り切ってお菓子を焼いた。
ある日、焼いたお菓子を入れておいたはずの箱からセディが出てきて、クリスタとユリウスが大笑いしたそうだ。セディが箱をひっくり返して中を空にして、代わりに自分が箱の中に入ったらしい。小さめの箱が大好きで、やたらと中に入りたがる。箱どころか鍋の中にも入りかねない。
そんなセディを水で濡らした布で拭いたり、ブラッシングするのがユリウスの役目だったが、セディが気に入りそうな箱作りも、ユリウスの仕事に加わった。
あるとき、セディが木に登って、おりられなくなったことがあった。ユリウスが梯子をかけて途中まで登ったら、セディが梯子をおそるおそるユリウスのほうに向かっておりてきた。そこで、ライヒェルはユリウスといっしょに、猫のために梯子のようなものを作って木のそばに置いたりもした。ユリウスは、息子たちが同じ年齢の頃より器用に釘と金槌を使った。
セディと会うこと以外にユリウスが楽しみにしていたのは、なんといってもピアノに触ることだ。
ユリウスは、負けず嫌いな性格で、努力家でもある。クリスタによると、多くの子どもは、思うように弾けないときなどは、癇癪を起こして練習をやめてしまうのだそうだ。だが、ユリウスは、粘り強く繰り返し練習した。
ユリウスは、楽譜の読み方も熱心に教わった。そして、ライヒェル宅に毎日は来られないので、楽譜を借りて、覚えるほど何度も読んでくるそうだ。
ユリウスには、向学心もあった。ライヒェルの二千冊ほどの蔵書のなかから、いくつかの本に興味を示した。亡き娘や今は成人した息子たちが幼いころに読んだ本だ。ユリウスに本を貸すと嬉しそうにした。読んだ本について、いくつか質問をしたら、的確な答えが返ってきたものだ。登場人物の気持ちや作者の考えを、理解していた。
ユリウスの興味関心は、それにとどまらず、なんとフランス語にまで及んだ。フランス語が話せるクリスタは、ユリウスを膝の上にのせて、フランス語の子どもの本を読んで聞かせたりもした。クリスタは、そんなユリウスが好きだった。
ユリウスは、ある絵にも興味を示し、眺めることもしばしばだった。ライヒェルの娘の絵だ。絵の中の斜めを向いた娘は、行儀よく座っている。
「まるでお姫様だね。薄い青色のドレスがとてもよく似合っている」
「私の友人の画家に描いてもらったんだよ。彼は、出版業を営む男の妻と子どもたちの絵を描いたことがあってね。二人の子どものうち一人は男の子なんだが、女の子が着るようなワンピースを着せられていてね」
「男の子なのに、女の子のかっこうをさせられたの?パリにはそんな人が多いの?」
「パリでは、そんなことが流行っていたのさ」
「だったら、僕も女の子のかっこうをするのかなあ」
そうつぶやくユリウスの声には、疑問だけでなく、羨望と悲しみとも取れる複雑な感情が混ざっていたように、ライヒェルは思った。
クリスタは、ピアノに対するユリウスの熱意に心を動かされ、知り合いのつてを頼ってピアノ教師を紹介した。さらに、ユリウスが自宅で練習できるように、格安のピアノも探した。以来、ユリウスのピアノの腕はぐんぐん伸びていった。
ライヒェル夫妻の会話に、息子や娘たちの他にユリウスの話題も加わった。だが、クリスタは、ユリウスに関して、気がかりな点があると案じていた。
「ユリウスの願いを叶えてくださって、何とお礼を言ったらいいのか」
恐縮しきった母親のレナーテに対して、クリスタは、ユリウスが喜ぶことなら喜んでするつもりだと言った。そして、少し迷ってから、日頃からの懸念を思い切って口に出した。
「ユリウスには、もう一つ大きな願いがあると思いますわ、レナーテさん」
レナーテの顔にとまどいの色が浮かんだ。
「神様の教えに背く行為を、子どもにさせてはいけないわ」
クリスタは、遠慮がちな声で、だが、はっきりと意見を伝えた。彼女はレナーテの罪を確信していた。
レナーテは押し黙ってしまった。
「でも、深い事情があるんでしょうね」
クリスタの声は、今度は同情に満ちていた。
「だから、あなたの同意なしで、誰かに話したりはしないつもりよ。でも、わたしたちが、いつでも力になりたいと思っていることを、どうか忘れないで欲しいの」
ユリウスと母親から、そのことについて相談を受けたのは、それから数年後のことだった。
「何がきっかけで、ユリウスが女の子だって気付いたんですか。わたしたちは、これ以上ないほど注意を払ってきたつもりなんです。ユリウスも、ばれるようなことをした心当たりがないと言っていましたし」
「まあ、それは、膝の上に抱っこしてみれば、すぐに分かるものよ。息子と娘は違ったし、教会でも多くの男の子や女の子を膝の上にのせてきたもの」
クリスタは笑って言った。
リヒャルト・ライヒェルは、おもむろに立ち上がり、飾り棚に置かれた一枚の写真を手に持った。そこには、ドレスを着たユリウスの姿があった。ライヒェルの娘のマルグレーテの肖像画と同じ髪型をして、同じ角度で同じ姿勢で座っている。
ユリウスは、バイエルンのレーゲンスブルクにいる実父の元で、女の子として暮らし始めた。その写真は、ユリウスからの手紙に同封されていたものだ。
クリスタがお茶をもって居間に入って来た。
「とうとう雪が舞い始めましたね」
クリスタは、夫が手に持っているものを認めると、しみじみとした口調になった。
「ユリウス、いえ、ユリアの写真ね。そういえば、彼女と初めて会ったのも、この時期でしたね」
セディが、ユリウスがつくった箱から出て、ライヒェル夫妻の足元にすり寄って来た。
(終わり)
*このあと『暁の夢(後編)』へつながります
原案/野の花、文/OgawaSaki
2022.07.10
